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2018年8月

2018年8月26日 (日)

ヨハネの手紙一 4章1~6節 「本物を見分ける」

 ヨハネの手紙一は、栄光一本やりのキリストのイメージから生身のイエスを守り、ここから離れてしまっては教会ではあり得ないことを前提にしながら論を立てています。
 イエスの肉体性を否定する勢力を偽預言者、反キリストと呼びながら、「イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。」(2節)と語り、受肉の事実に立ち返ることへと招こうとしているのでしょう。
 キリスト教は、ただ単に精神的・内面的な救いに関わることで本領を発揮するものではありません。福音書に描かれているのは、実際に弱り、苦しみ、悩み、試練といった具体的な日々の課題と格闘している中に、一緒にいてくださるイエスの姿です。この生身のイエスのリアリティーによって支えられ、慰めが与えられるところにこそ、教会の本当の働きがあります。神に属していることは、生身のイエスによって、しかも十字架上の傷だらけのイエスによって支えられ、守られて、導かれていることに他なりません。この生き方を、その当時の時代の中で影響力の強かった勢力を偽預言者・反キリストと呼んでいるのでしょう。彼らの主張は一般受けするような心地よい教えだったに違いありません。彼らに抗して、あるべき方向に向かって、本物を探し出す途上にあるものとして教会が立ち続け、歩んでいくための問題意識をヨハネの手紙一は描き出しています。
 ヨハネの手紙一の時代と現代日本では、覆われている空気は同じだとは言えませんが、息苦しくさせている偽預言者・反キリスト、すなわち人間のいのちを無条件に肯定し祝福し喜ばしい存在であることを抑圧する勢力が蔓延している実情においては、共鳴していると言えます。たとえばヘイトスピーチ・格差社会・同調圧力など、この世の論理としての偽預言者・反キリストと呼ばざるを得ない勢力に抗いつつ、生身のイエスを取り戻しながら、本物を見分ける知恵が与えられたいと願っています。6節では次のようにあります。「わたしたちは神に属する者です。神を知る人は、わたしたちに耳を傾けますが、神に属していない者は、わたしたちに耳を傾けません。これによって、真理の霊と人を惑わす霊とを見分けることができます。」と。イエスは常にいと小さき者たちの仲間になり、友になるためにこそ、具体的な肉を取られました、この受肉の出来事において本物を見分けつつ歩んで行きたいと願っています。

2018年8月19日 (日)

コリントの信徒への手紙一 10章1~13節 「神様からの贈り物」 岡村 幹子

《日毎の朝の祈り》
あなたは私の目で見、手でさわることのできないお方ですが、それでもなお臨在の力をはっきりと確信することの出来ますよう恵みを与えてください。(ジョン・ベイリー)

《主題》
「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。…試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」
                                        (Ⅰコリント10:13)
①教会への招き
 わたしが母教会を離れ、この教会に導かれたのは1990年の春でした。様々な戦いもありましたが、年齢を重ねても静かに礼拝を守りたい…との願いからでした。②大きな試練主人の退職後の税理士業務を手伝う事になり順調であったかに見えましたが2年後、主人が「大腸ガン」を患いようやく病も癒えてホッとしたのもつかの間、私の「骨粗しょう症」と次々に思ってもみない病に苦しめられました。「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。」(ヤコブ1:12)とありますように、この病も多くの方々の祈りに支えられ、乗り切ることが出来ました。

③武道との出会い
 教会の礼拝の帰路、道路が渋滞してスポーツセンターの前で止まってしまいました。ふと見ると「横浜市なぎなた大会」とありました。下車してその日のうちに入会しました(常々運動する様医師に勧められていた為)。病と戦いながら何とか皆についていけるまでになり、同期の仲間からは遅れても遅れても「忍耐をもって耐え忍びなさい」との御言葉に支えられようやく2015年の秋、目標まで到達することが出来ました。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)

④日々思うことは
 苦しみにあう時、神様からの「贈り物」として祈り求めていく時、神様の御愛を知り月足らずの者を愛してご自身のもとへと招かれている事に気づかされます。そして「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け わたしの救いの右の手であなたを支える。」(イザヤ41:10)と。これからは体の老いのみに目を向けて嘆くのではなくて自分の内側に常に問答しながら感謝の日々を歩みたく願っています。

2018年8月12日 (日)

ヨハネの手紙一 3章19~24節 「神への信頼」

 愛し合うと言っても、どういうイメージを持つべきかについては難しいところです。本田哲郎神父は通常「愛する」と訳すべきところを「大切にする」としています。今日の聖書には次のようにあります。「愛する者たち、わたしたちは心に責められることがなければ、神の御前で確信を持つことができ、神に願うことは何でもかなえられます。わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです。」
 ここにある「神に願うことは何でもかなえられます」というのは、神を自分の思い通りに動かしてしまうようなことではなくて、神が憎しみから大切にしていく心に変えてくださる方であるという意味合いでしょう。神が願うことは前進していくのであり、そこに巻き込まれていくところに聖書の読み手のあり方があるのだということです。そこに「その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。」へと導かれるのです。ここにおられる神が働いているので、力を与える霊があるのです。神の見えざる働きの聖霊の業です。
 わたしたちの実際の姿を顧みれば、自分の能力では、隣人愛から愛敵へと至る、他者を大切にする思いというのは作り出していくことはできません。この、できないというところに向かって神の働きかけが聖霊としてあるのだから、あなたがたは愛すること・大切にする生き方に招かれているのですよ、ということです。
 「心に責められることがあろうとも」(3:20)とあります。わたしたちのあり方を冷静に顧みて、心に責められることのない人がどれだけいるでしょうか。自信をもって100パーセントわたしは神に対して純粋に仕え、神の愛を自らが他者に向かって開いているのだと言い切れる人がどれだけいるでしょうか。今日の聖書はわたしたちが皆責めを負うことを前提にしているのです。人間の側からは愛を作り出すことはできないし、他者を大切にすることができない。しかし、大切にしてくださった方が語りかけてくださっていることによって愛する力も大切にする力も能力もない人が生かされていくのだということです。それは3:20後半にあります。「神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです。」わたしたちは他者に向かって、愛することも大切にすることもできない心を持っているけれども、あのイエス・キリストは、すべてご存知だと。
 十字架においてあらゆる一切の人間の弱さ、罪の極みというものをただ一人で担ってくださったことによって、すべての人間の<いのち>は呪いと憎しみから買い戻された、贖いだされたという出来事が起こったのです。その出来事によって、わたしたち一人ひとりを知ってくださっていることに与っていくならば、愛がなく大切にする心のないわたしたちがイエス・キリストの導きのもとで、他者を愛していくこと大切にしていくことへとすでに招かれてしまっているのです。その招きから誰一人として逃れることはできない、そのような掟を審きとしてではなくて恵みとして受け止めていく神への信頼の中で歩んで行くことによってわたしたちは平和を実現する生き方へと招かれているのです。

2018年8月 5日 (日)

ヨハネの手紙一 3章11~18節 「言葉や口先だけではなく」

 ここのところ10年以上にわたって、いわゆるヘイトスピーチ、排外主義的な運動が盛り上がっています。中国大陸や朝鮮半島の国籍の人々に対して日本から出ていけと、暴力的に罵倒し続けています。公に街角で。ヘイトスピーチを行う人々には決定的な欠落があります。<いのち>に対する誠実さや想像力です。それはしかし、わたしたち自身にも問うべき事柄です。
 わたしたちは、人が天地創造物語で神が土くれを人の形にして鼻に息を吹き込んで生きる者とされたという原事実をもう一度捉えかえさなくてはなりません。人間の側には、他の人間に対して、その<いのち>に対しての冒涜、殺意、憎しみの権利は一切ないということです。あらゆる<いのち>は神に与っていることを認めることです。そして、その<いのち>がつながりの中にあることを。
 枠を設定することで日本人とか○○人との違いを必要以上に強調することをやめるべきです。民族とか宗教とか文化が異なっていても、無条件に尊いことを認めていく仕方が求められているのです。どこか人間のいのちに対して優劣をつける、極端に言えば優生思想に親和性のある発想をもって自分が自分を成り立たせるようなものの考え方とか仕組みとかを体に刻み込んでしまっているのではないか、常に点検が必要です。
 イエス・キリストに立ち返ることによって、いのちのつながりというものを回復していく方向性があるに違いないと信じることから始めるのです。相手のことを好きとか嫌いとかをも超えて、その相手に神から与えられている、ないしは神から貸し出されている<いのち>であるとうことをまず知るべきです。具体的に今存在しているその人に対して憎しみを抱かないということです。
 憎しみの言論(ただ単に言葉ということではなくて生き方全体を示します)と決別するには、憎しみという事柄を溶かして解体していくような働きをイエス・キリストの十字架の出来事が示しているところに絶えず立ち返ること。ここにこそ愛という力が既に働いていると信じることができる、ここから始めていこうじゃないかという呼びかけとして今日の聖書を読み取ることができるのではないでしょうか。
 イエス・キリストがこの世を愛してくださる仕方で自らをささげたという事実に絶えず立ち返ることによって、わたしたちが持っている憎しみに囚われてしまう心が溶かされ、解体される道に連なることができるのです。ここに平和を求め実現していく道を歩みがあるのです。

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