ヨハネの手紙一 4章1~6節 「本物を見分ける」
ヨハネの手紙一は、栄光一本やりのキリストのイメージから生身のイエスを守り、ここから離れてしまっては教会ではあり得ないことを前提にしながら論を立てています。
イエスの肉体性を否定する勢力を偽預言者、反キリストと呼びながら、「イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。」(2節)と語り、受肉の事実に立ち返ることへと招こうとしているのでしょう。
キリスト教は、ただ単に精神的・内面的な救いに関わることで本領を発揮するものではありません。福音書に描かれているのは、実際に弱り、苦しみ、悩み、試練といった具体的な日々の課題と格闘している中に、一緒にいてくださるイエスの姿です。この生身のイエスのリアリティーによって支えられ、慰めが与えられるところにこそ、教会の本当の働きがあります。神に属していることは、生身のイエスによって、しかも十字架上の傷だらけのイエスによって支えられ、守られて、導かれていることに他なりません。この生き方を、その当時の時代の中で影響力の強かった勢力を偽預言者・反キリストと呼んでいるのでしょう。彼らの主張は一般受けするような心地よい教えだったに違いありません。彼らに抗して、あるべき方向に向かって、本物を探し出す途上にあるものとして教会が立ち続け、歩んでいくための問題意識をヨハネの手紙一は描き出しています。
ヨハネの手紙一の時代と現代日本では、覆われている空気は同じだとは言えませんが、息苦しくさせている偽預言者・反キリスト、すなわち人間のいのちを無条件に肯定し祝福し喜ばしい存在であることを抑圧する勢力が蔓延している実情においては、共鳴していると言えます。たとえばヘイトスピーチ・格差社会・同調圧力など、この世の論理としての偽預言者・反キリストと呼ばざるを得ない勢力に抗いつつ、生身のイエスを取り戻しながら、本物を見分ける知恵が与えられたいと願っています。6節では次のようにあります。「わたしたちは神に属する者です。神を知る人は、わたしたちに耳を傾けますが、神に属していない者は、わたしたちに耳を傾けません。これによって、真理の霊と人を惑わす霊とを見分けることができます。」と。イエスは常にいと小さき者たちの仲間になり、友になるためにこそ、具体的な肉を取られました、この受肉の出来事において本物を見分けつつ歩んで行きたいと願っています。
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