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2018年8月12日 (日)

ヨハネの手紙一 3章19~24節 「神への信頼」

 愛し合うと言っても、どういうイメージを持つべきかについては難しいところです。本田哲郎神父は通常「愛する」と訳すべきところを「大切にする」としています。今日の聖書には次のようにあります。「愛する者たち、わたしたちは心に責められることがなければ、神の御前で確信を持つことができ、神に願うことは何でもかなえられます。わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです。」
 ここにある「神に願うことは何でもかなえられます」というのは、神を自分の思い通りに動かしてしまうようなことではなくて、神が憎しみから大切にしていく心に変えてくださる方であるという意味合いでしょう。神が願うことは前進していくのであり、そこに巻き込まれていくところに聖書の読み手のあり方があるのだということです。そこに「その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。」へと導かれるのです。ここにおられる神が働いているので、力を与える霊があるのです。神の見えざる働きの聖霊の業です。
 わたしたちの実際の姿を顧みれば、自分の能力では、隣人愛から愛敵へと至る、他者を大切にする思いというのは作り出していくことはできません。この、できないというところに向かって神の働きかけが聖霊としてあるのだから、あなたがたは愛すること・大切にする生き方に招かれているのですよ、ということです。
 「心に責められることがあろうとも」(3:20)とあります。わたしたちのあり方を冷静に顧みて、心に責められることのない人がどれだけいるでしょうか。自信をもって100パーセントわたしは神に対して純粋に仕え、神の愛を自らが他者に向かって開いているのだと言い切れる人がどれだけいるでしょうか。今日の聖書はわたしたちが皆責めを負うことを前提にしているのです。人間の側からは愛を作り出すことはできないし、他者を大切にすることができない。しかし、大切にしてくださった方が語りかけてくださっていることによって愛する力も大切にする力も能力もない人が生かされていくのだということです。それは3:20後半にあります。「神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです。」わたしたちは他者に向かって、愛することも大切にすることもできない心を持っているけれども、あのイエス・キリストは、すべてご存知だと。
 十字架においてあらゆる一切の人間の弱さ、罪の極みというものをただ一人で担ってくださったことによって、すべての人間の<いのち>は呪いと憎しみから買い戻された、贖いだされたという出来事が起こったのです。その出来事によって、わたしたち一人ひとりを知ってくださっていることに与っていくならば、愛がなく大切にする心のないわたしたちがイエス・キリストの導きのもとで、他者を愛していくこと大切にしていくことへとすでに招かれてしまっているのです。その招きから誰一人として逃れることはできない、そのような掟を審きとしてではなくて恵みとして受け止めていく神への信頼の中で歩んで行くことによってわたしたちは平和を実現する生き方へと招かれているのです。

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