« 2018年6月 | トップページ | 2018年8月 »

2018年7月

2018年7月22日 (日)

ヨハネの手紙一 2章18~27節 「立脚点」

 今日のテキストは、同じ教会にいた人がかつての仲間に対して最初からそもそも仲間でなかったというのです。おそらく洗礼も同じ教会で受け、その当時の教会の習慣がどうであったのかは正確には分かりませんが、洗礼の後に油を塗った可能性もあるのです。それらに与ったかつての仲間に対して反キリストとして惑わすものだと断じるのです。これをどのよう受け止めたらいいのか、悩ましいところです。
 テキストを文字通りの意図からすると切り捨てられた人はそれでお終いになります。しかし、イエスの生涯からは判断すると相容れないものを感じます。イエスはそのようにある共同体から弾かれた人の友となり仲間となった人です。ヨハネの手紙一が言うように、去っていった人がそもそも自分たちの仲間でなかったという発想をしてしまうのは、イエスの生涯から考えると少し違うと思います。ただ反キリストの発想というのは、図らずもヨハネの手紙一は反キリストを攻撃するようにして自らが反キリストであることの可能性を示してしまっている。つまり、自分たちが正しいとし、さらに言えば栄光のキリストにより近いところに自分たちがいるのだという思い上がりによって、反キリストに近づいているヨハネの手紙一のあり方が浮き彫りにされるのです。このテキストを反面教師として読んでいくならば、「偽り者というのはイエスがメシアであることを否定するものでなくて誰でありましょう」とは、生前のイエス・キリストの生涯に立ち返るところから今一度ヨハネの手紙一を読み返していくときに浮かび上がってくる世界観があると考えます。イエスを認めていく仕方で、御子のうちにとどまることを模索していくことが反キリスト呼ばわりされて、切り捨てられた側に御子のうちにとどまるという真理契機があるのではないでしょうか。
 御子のうちにとどまるところに重点があります。生前のイエスがキリストであることをしっかりと認めるところに固着していくことです。イエスの守りの内にあって固着していくことに祈りをもって歩んで行くということです。切り捨てられても、それでもなおとどまり続ける勇気があることを教えようとしているのでしょう。
 神の心が具体化として人間となったという事実。これを今のこととして担い続けていくということが御子のうちに留まることの意味です。 いったいわたしたちがキリストにあってどのようにして立ち居振る舞いをしていくのか。自らの内にあるかもしれない反キリストをいかにして、主イエスの守りの内にあって退けながら御子の内にとどまっていく道があるということを今一度確認することが求められているのではないでしょうか。

2018年7月15日 (日)

ヨハネの手紙一 2章7~17節 「生き方を考えるひと時」

 イエス・キリストの十字架の出来事によってもたらされた世界観は、変わることのない古い掟であると同時に常に新しい掟でもあるのです。まず、キリスト者はここにこそ自分たちの軸足を据え、この世に対峙していく姿勢を整えていくことが求められています。神の創造の業における「光あれ」という最初の言葉は、(太陽や月などではなく)根源的な光なるものの創造です。神が人となるという具体の中で表わされたのです。
 今日の聖書を読んで、違和感を覚えた方もあるかもしれません。15節の「世も世にあるものも、愛してはいけません。」が、ヨハネによる福音書3章16節の「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」と矛盾するように感じるからです。さらに「世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。」と続きます。この言葉の方向性は、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」がゆえに、この世に対する責任性をキリスト者に求めているのだと読むことができないでしょうか。
 17節に「世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。」とあります。神の思いに適ったあり方を求めていくキリスト者は、来るべき終わりの日に永遠を生きることができるからこそ、過ぎ去っていく、この世の様々な事柄に対して冷静に、そしてこの世の価値観に溺れてしまわないでいることができるはずだというのです。イエス・キリストの光に与ってこの世の悪を丁寧に暴き出し、キリストの正義と平和をこの世にもたらす道筋を示すことが、その中心にあるのです。
 わたしたちキリスト者は、十字架の出来事によって与えられた価値観をもってイエス・キリストによって愛されている愛に応える仕方で、「世も世にあるものも、愛してはいけません」という言葉を再解釈することが求められているのです。わたしたちにできるのは、イエス・キリストに与って相対化していく視点、その軸足をズラしていかないことです(改訂版子どもさんびか123「わたしは主のこどもです」参照)。
 わたしたちは、人のいのちの尊厳を軽んじ、痛めつけ、殺してさえいくような勢力がある悪に満ちた世とそこにあるものに立ち向かいながら生きていかなくてはならないのです。イエス・キリストが愛してくださっている愛に基づいて証しし、行動していく道が備えられていることをあえて生きていくことこそが、今日の聖書の求めているところです。

2018年7月 8日 (日)

ヨハネの手紙一 2章1~6 節 「赦されて」

 ヨハネ3:16によれば「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」と語りかけています。神の愛の具体として主イエスとして人間となった(=受肉)のです。わたしたちと変わらない、一人の人としてこの世に来られた事実、神が神であることを捨てずに神であることを貫くためにこその受肉であったのです。
 かつて起こった主イエスの受肉は、は聖霊である弁護者として義を貫くキリストが今おられることを知らせます。わたしたちが罪を犯していても、そうでなくても。ここでいう「罪」とは、単に倫理的な、あるいは法的な悪に手を染めることではなく、もっと、本質的なことを指しています。神との関係において相応しくない、的を外している、というときに罪と呼びます。今のわたしたちの姿が主なる神に喜ばれているのか、そうでないのか。聖書から、というより真の光である神から照らされることによって浮かび上がってくる姿の相応しさが問われています。「罪」という枠を乗り越えて呼びかける方への注目が語られます。天からの知らせは直接聞くことを見ることも触れることもできなくても、リアルとして今働き続けている、そのことへの信頼を聖書は求めているのです。
 2章2節では、「この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」とあります。「いけにえ」とは、贖罪のためのものです。この世の一切の罪を一人十字架上で負われることによって赦しを実現してくださったということです。このイエス・キリストの受肉と贖罪はヨハネによる福音書と手紙においては非常に重要なポイントです。
 イエス・キリストの受肉と贖罪を知る者は、神を知ってしまっているのだし、真理が与えているから神の内にいることによって神の掟を生きることへと導かれていることになるのです。神の内にいる、つまり、過去の主イエスが今のこととして聖霊である弁護者として義の前進として、神の愛の実現なのです。ここでの神の愛とは、わたしたちが神を愛するという方向よりも、ヨハネによる福音書3章16節の「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」という神の側からの愛の働きとしての「神の愛」と読まれるべきです。それが受肉と十字架・復活・昇天という図式において実現しているのだというのです。
 そして、この神の愛に包まれている者は、自ずと「イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません」という招きの内にいるのです。かつての主イエスの道行きに伴っていくようにして、自らの持ち場の中で歩んで行くことができるし、その力がすでに備えられているから導かれるままに委ねていけ、という促しがここにはあるのです。

2018年7月 1日 (日)

ヨハネの手紙一 1章5~10節 「神の光を受けつつ」

 わたしたちは、自分を見つめるときに、自分のことは自分が一番分かっているのだと考えがちです。しかし実は、理解する自分と実際の自分との大きなズレがあることが多いのです。自分を過小評価して「なんて自分はダメな人間なんだろう」と落ち込むこともあるでしょうし、「なんで自分はこんなに優秀なのに評価されないのだろう」などと過大評価することもあります。あるがままの自分を自分で見つめていくことは難しいことです。それは自分を頼りにする限り、不可能なことなのです。まず、自分が相応しい自分へと修正され、整えられていくためには、確立すべき前提があります。
 この前提が5節で展開されています。「神は光であり、神には闇が全くない」ことから導かれない限り、わたしたちは光の中を歩むことができないのだということです。ここに立てば、相応しさへと修正され、整えられた歩みに連なっていくことができるのだということです。このことを理解するためには「光」という象徴的な言葉の意味を聖書から知らされる必要があります。この「光」とはヨハネによる福音書の冒頭に描かれている言葉からイエス・キリストご自身のことです(ヨハネ1:1-9参照)。
 さらに、この「光」であるイエス・キリストという根源の表れは、創造神話に由来しています。「初めに、神は天地を創造された。…神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。…」(創世記1:1-5)。この「光」は、四日目に創造される(創世記1:14-19)太陽や月、星などの実際に見える「光」のことではなくて、物事の本質を照らし出す光なのです。神の天地創造において表わされている「力」であり、根源の中の根源なのだ、ということです。
 その人のいのちのあり方をイエスが受肉した出来事から導かれて行くことこそが「光の中を歩む」ことだというのです。この「光の中を歩む」こととは、まことの光であるイエスによって照らし出され、罪が明らかにされながらも、「わたし」を復権させていくことです。「わたし」があるがままの状態に取り戻されることから歩んで行く道があるのだという宣言がここにはあるのです。生きる勇気とか希望に支えられる歩みが用意されているのだという信頼へと導かれていくはずなのです。わたしたちの日毎の歩みの姿も、自分が自分になっていき、歩んで行ける、そのための光であるイエス・キリストが守っていてくださるので、自分のことが分かる自分へと成長しながら歩んで行くのであり、だから光の中を歩んで行くようにと今日の聖書は、わたしたちに語りかけ励ましているのです。

« 2018年6月 | トップページ | 2018年8月 »

無料ブログはココログ