ヨハネの手紙一 2章7~17節 「生き方を考えるひと時」
イエス・キリストの十字架の出来事によってもたらされた世界観は、変わることのない古い掟であると同時に常に新しい掟でもあるのです。まず、キリスト者はここにこそ自分たちの軸足を据え、この世に対峙していく姿勢を整えていくことが求められています。神の創造の業における「光あれ」という最初の言葉は、(太陽や月などではなく)根源的な光なるものの創造です。神が人となるという具体の中で表わされたのです。
今日の聖書を読んで、違和感を覚えた方もあるかもしれません。15節の「世も世にあるものも、愛してはいけません。」が、ヨハネによる福音書3章16節の「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」と矛盾するように感じるからです。さらに「世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。」と続きます。この言葉の方向性は、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」がゆえに、この世に対する責任性をキリスト者に求めているのだと読むことができないでしょうか。
17節に「世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。」とあります。神の思いに適ったあり方を求めていくキリスト者は、来るべき終わりの日に永遠を生きることができるからこそ、過ぎ去っていく、この世の様々な事柄に対して冷静に、そしてこの世の価値観に溺れてしまわないでいることができるはずだというのです。イエス・キリストの光に与ってこの世の悪を丁寧に暴き出し、キリストの正義と平和をこの世にもたらす道筋を示すことが、その中心にあるのです。
わたしたちキリスト者は、十字架の出来事によって与えられた価値観をもってイエス・キリストによって愛されている愛に応える仕方で、「世も世にあるものも、愛してはいけません」という言葉を再解釈することが求められているのです。わたしたちにできるのは、イエス・キリストに与って相対化していく視点、その軸足をズラしていかないことです(改訂版子どもさんびか123「わたしは主のこどもです」参照)。
わたしたちは、人のいのちの尊厳を軽んじ、痛めつけ、殺してさえいくような勢力がある悪に満ちた世とそこにあるものに立ち向かいながら生きていかなくてはならないのです。イエス・キリストが愛してくださっている愛に基づいて証しし、行動していく道が備えられていることをあえて生きていくことこそが、今日の聖書の求めているところです。
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