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2018年7月22日 (日)

ヨハネの手紙一 2章18~27節 「立脚点」

 今日のテキストは、同じ教会にいた人がかつての仲間に対して最初からそもそも仲間でなかったというのです。おそらく洗礼も同じ教会で受け、その当時の教会の習慣がどうであったのかは正確には分かりませんが、洗礼の後に油を塗った可能性もあるのです。それらに与ったかつての仲間に対して反キリストとして惑わすものだと断じるのです。これをどのよう受け止めたらいいのか、悩ましいところです。
 テキストを文字通りの意図からすると切り捨てられた人はそれでお終いになります。しかし、イエスの生涯からは判断すると相容れないものを感じます。イエスはそのようにある共同体から弾かれた人の友となり仲間となった人です。ヨハネの手紙一が言うように、去っていった人がそもそも自分たちの仲間でなかったという発想をしてしまうのは、イエスの生涯から考えると少し違うと思います。ただ反キリストの発想というのは、図らずもヨハネの手紙一は反キリストを攻撃するようにして自らが反キリストであることの可能性を示してしまっている。つまり、自分たちが正しいとし、さらに言えば栄光のキリストにより近いところに自分たちがいるのだという思い上がりによって、反キリストに近づいているヨハネの手紙一のあり方が浮き彫りにされるのです。このテキストを反面教師として読んでいくならば、「偽り者というのはイエスがメシアであることを否定するものでなくて誰でありましょう」とは、生前のイエス・キリストの生涯に立ち返るところから今一度ヨハネの手紙一を読み返していくときに浮かび上がってくる世界観があると考えます。イエスを認めていく仕方で、御子のうちにとどまることを模索していくことが反キリスト呼ばわりされて、切り捨てられた側に御子のうちにとどまるという真理契機があるのではないでしょうか。
 御子のうちにとどまるところに重点があります。生前のイエスがキリストであることをしっかりと認めるところに固着していくことです。イエスの守りの内にあって固着していくことに祈りをもって歩んで行くということです。切り捨てられても、それでもなおとどまり続ける勇気があることを教えようとしているのでしょう。
 神の心が具体化として人間となったという事実。これを今のこととして担い続けていくということが御子のうちに留まることの意味です。 いったいわたしたちがキリストにあってどのようにして立ち居振る舞いをしていくのか。自らの内にあるかもしれない反キリストをいかにして、主イエスの守りの内にあって退けながら御子の内にとどまっていく道があるということを今一度確認することが求められているのではないでしょうか。

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