ヨハネの手紙一 2章1~6 節 「赦されて」
ヨハネ3:16によれば「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」と語りかけています。神の愛の具体として主イエスとして人間となった(=受肉)のです。わたしたちと変わらない、一人の人としてこの世に来られた事実、神が神であることを捨てずに神であることを貫くためにこその受肉であったのです。
かつて起こった主イエスの受肉は、は聖霊である弁護者として義を貫くキリストが今おられることを知らせます。わたしたちが罪を犯していても、そうでなくても。ここでいう「罪」とは、単に倫理的な、あるいは法的な悪に手を染めることではなく、もっと、本質的なことを指しています。神との関係において相応しくない、的を外している、というときに罪と呼びます。今のわたしたちの姿が主なる神に喜ばれているのか、そうでないのか。聖書から、というより真の光である神から照らされることによって浮かび上がってくる姿の相応しさが問われています。「罪」という枠を乗り越えて呼びかける方への注目が語られます。天からの知らせは直接聞くことを見ることも触れることもできなくても、リアルとして今働き続けている、そのことへの信頼を聖書は求めているのです。
2章2節では、「この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」とあります。「いけにえ」とは、贖罪のためのものです。この世の一切の罪を一人十字架上で負われることによって赦しを実現してくださったということです。このイエス・キリストの受肉と贖罪はヨハネによる福音書と手紙においては非常に重要なポイントです。
イエス・キリストの受肉と贖罪を知る者は、神を知ってしまっているのだし、真理が与えているから神の内にいることによって神の掟を生きることへと導かれていることになるのです。神の内にいる、つまり、過去の主イエスが今のこととして聖霊である弁護者として義の前進として、神の愛の実現なのです。ここでの神の愛とは、わたしたちが神を愛するという方向よりも、ヨハネによる福音書3章16節の「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」という神の側からの愛の働きとしての「神の愛」と読まれるべきです。それが受肉と十字架・復活・昇天という図式において実現しているのだというのです。
そして、この神の愛に包まれている者は、自ずと「イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません」という招きの内にいるのです。かつての主イエスの道行きに伴っていくようにして、自らの持ち場の中で歩んで行くことができるし、その力がすでに備えられているから導かれるままに委ねていけ、という促しがここにはあるのです。
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