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2018年7月 1日 (日)

ヨハネの手紙一 1章5~10節 「神の光を受けつつ」

 わたしたちは、自分を見つめるときに、自分のことは自分が一番分かっているのだと考えがちです。しかし実は、理解する自分と実際の自分との大きなズレがあることが多いのです。自分を過小評価して「なんて自分はダメな人間なんだろう」と落ち込むこともあるでしょうし、「なんで自分はこんなに優秀なのに評価されないのだろう」などと過大評価することもあります。あるがままの自分を自分で見つめていくことは難しいことです。それは自分を頼りにする限り、不可能なことなのです。まず、自分が相応しい自分へと修正され、整えられていくためには、確立すべき前提があります。
 この前提が5節で展開されています。「神は光であり、神には闇が全くない」ことから導かれない限り、わたしたちは光の中を歩むことができないのだということです。ここに立てば、相応しさへと修正され、整えられた歩みに連なっていくことができるのだということです。このことを理解するためには「光」という象徴的な言葉の意味を聖書から知らされる必要があります。この「光」とはヨハネによる福音書の冒頭に描かれている言葉からイエス・キリストご自身のことです(ヨハネ1:1-9参照)。
 さらに、この「光」であるイエス・キリストという根源の表れは、創造神話に由来しています。「初めに、神は天地を創造された。…神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。…」(創世記1:1-5)。この「光」は、四日目に創造される(創世記1:14-19)太陽や月、星などの実際に見える「光」のことではなくて、物事の本質を照らし出す光なのです。神の天地創造において表わされている「力」であり、根源の中の根源なのだ、ということです。
 その人のいのちのあり方をイエスが受肉した出来事から導かれて行くことこそが「光の中を歩む」ことだというのです。この「光の中を歩む」こととは、まことの光であるイエスによって照らし出され、罪が明らかにされながらも、「わたし」を復権させていくことです。「わたし」があるがままの状態に取り戻されることから歩んで行く道があるのだという宣言がここにはあるのです。生きる勇気とか希望に支えられる歩みが用意されているのだという信頼へと導かれていくはずなのです。わたしたちの日毎の歩みの姿も、自分が自分になっていき、歩んで行ける、そのための光であるイエス・キリストが守っていてくださるので、自分のことが分かる自分へと成長しながら歩んで行くのであり、だから光の中を歩んで行くようにと今日の聖書は、わたしたちに語りかけ励ましているのです。

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