ヨハネの手紙一 1章1~4節 「伝道に巻き込まれて」
4節には「わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。」とあります。「わたしたち」という教会の中で、わたしとあなたとの関係の中に「喜びが満ちあふれる」ことを願っているのです。ヨハネの手紙の場合、わたしとあなた、ないしは教会の中での一人ひとりとの間に立っておられるイエス・キリストご自身の働きがリアルであることをこそ「喜ぶ」という意味となります。このことを何とかして伝えたいとヨハネの手紙一は書かれています。
伝えたいものとは命の言葉です。それは「初めからあったもの」とあります。「聞いた、見た、触れた」という具体として今、誰かから本物を手渡されているのです。背後にある伝道の主体はイエス・キリストの神ご自身です。
伝道とは命の言葉ご自身の働きを認めていくことです。言葉とは、事を起こすものです。人間をも含めた命を作り出していく、そのような言葉なのです。すべての民に与えられる事を起こす言葉というのがイエス・キリストの受肉、この世に生まれてくださったイエス・キリストその方なのです。その方がかつて働かれたことが今のこととして起こる。つまり伝道は神の命の言葉ご自身の働きのことを指します。イエス・キリストの神の働きが人を生かしていくのです。「あなたは決して神に見捨てられていない」「決して孤独ではない」と人との交わりの中で喜んで暮らしていく道がすでに備えられているのだから、安心していけ、大丈夫だと。わたしと誰かの間、そして教会の輪の中に命の言葉が働くのであれば、お互いのいのちを尊重することによって、そのいのちがより豊かに輝ける価値観へと導かれていくはずだという信仰がそこにあります、すなわち、イエス・キリストの神ご自身の伝道に巻き込まれてしまっているのです。
当然他者もイエス・キリストの伝道に巻き込まれていると認める中で、関係というものを育んでいくことができるという理解に導かれます。たとえ反りが合わなくても、相手を全面否定しない関係を新しく作りながら、より豊かな広がりへと展開できるからです。神の伝道自体に巻き込まれてしまった同じ仲間として認め合っていく中に、もうすでに神の伝道の業に共に連なっている関係性というものがあり、これをイエス・キリストは自らの喜びとしていったのです。
今わたしたちが見ることも聞くことも触れることもできないイエス・キリストの命の言葉は、「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの」という具体、リアルとしてのイエス・キリストの働きが、弁護者、助け主、聖霊としてこの場に臨んでおられることに働いておられるのです。イエス・キリストは聖霊として生きておられる。
今わたしたちが、命の言葉のリアルに倣って事を起こしていくならば、イエス・キリストの伝道の働きに巻き込まれ、喜びへと招かれていくと信じることが赦されているのです。
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