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2018年6月10日 (日)

マルコによる福音書 12章13~17節 「別の物語はあるはずだ」

 イエスを陥れたい人々が質問します。「ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか」。これは人頭税が問題になっているのでしょう。当時、ローマ帝国の中でユダヤは植民地のようなものであり、ローマに逆らわない限りにおいては信仰の自由やある程度の自治権が認められていました。裏を返せば、逆らったら容赦しないとの脅しが含まれているわけです。ところが、律法に忠実なユダヤ教徒にとってはローマに対して税金を払うことが屈辱であり、ユダヤ民族の誇りは傷つけられていると感じたのです。自分たちはユダヤ民族なのに何故ローマに税金を支払わなければならないのか、と。そこで、のちに66年から70年に、原因は税金問題だけではありませんが、ローマからの独立のための武装蜂起である第一次ユダヤ戦争が起こるのです。しかし、敗北してしまい神殿も崩壊します。この芽生えみたいなものが今日の問答の背景にはあります。
 当時流通していたデナリオン銀貨には肖像が描かれ、ローマ皇帝が神の子であるとする文字が刻まれていました。皇帝礼拝につながる発想があるのです。偶像礼拝を嫌うユダヤ教徒にとっては耐えがたいものです。もしイエスがここでローマに税金を払っていいと答えたなら、熱心なユダヤ教徒からは絶対に許されなくなります。反対にユダヤ人はローマに税金を払ってはいけないと言ったら、税金不払いを是認するということになるのでローマ帝国に対する反逆になります。ですから税金を払うと言っても払わないと言っても問題にされて言質を取られることになのです。
 しかし、イエスは別の道を示そうとしています。デナリオン銀貨に刻まれている肖像と銘は誰ものか問います。ローマ皇帝のものだという答えを聞くと「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と言います。「神のものは神に返しなさい」とは、神殿税です。ユダヤ教の神殿というのはユダヤ人から金を絞り尽くす非常に大きな経済システムなのです。
 庶民にとってみればローマ帝国からも神殿からも金を絞られっぱなしです。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」は、機転の利いた皮肉です。言外に第三の道を示していると読み取ることができるのではないでしょうか。ローマの税金も神殿税も欲しけりゃくれてやる、でも心は売り渡さない。そんな感じでしょうか。
 イエスという方は神を前提としながら○でも×でもない別の方向性がきっとある、絶えず第三の道、別の物語が開かれていることを示唆するのです。そのような発想をいつもイエスはもっているのです。神を前提としてものを考えていくということによって相対化され、世界観は新しくなるのです。わたしたちが学ぶべきは別の物語がきっとあると信じられることです。いつだって新しい第一歩を踏み出す力が備えられている、ということです。

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