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2018年6月 3日 (日)

マルコによる福音書 11章15~19節 「宗教批判を内在させる」

 神殿の境内で主イエスは「そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった」。神殿で暴れて見せたということです。神殿は、ユダヤ教という宗教の中心地であるだけではなく、民衆から財産を絞り尽くす仕組みが神殿の経済だったのです。この神殿に対して、手をこまねいていることは同意してしまうことです。ここで、イエスは暴れるというパフォーマンスを演じたのです。大掛かりなものではなく、象徴的なデモだったと言っていいかもしれません。
 ユダヤ教の神殿の機能、そして祭司長、律法学者、長老などの宗教権力によってないがしろにされている、~彼らからすればちっぽけな~イエスからすれば尊い一人ひとりのいのちのかけがえのなさの復権でした。庶民から財産を不正に搾取するのみならず、いのちさえも搾取し呪ってしまうような宗教、その頂点にある神殿に、喜ばしいいのちを取り戻すこと。これをこそ主イエスは戦い続けたのではないでしょうか。
 今、主イエスにあって復権すべきは、波風を立てるような場としての祈りの場を教会はすべての人に開いていくことです。かつてイエスの時代のユダヤ教が持っていたような閉ざされた偏狭なナショナリズム、自分の民族第一主義、その基準に当てはまらない人を排除していくことではありません。イエス・キリストの神は資格などを一切問うことなく、偏りなく、その祈りに耳を傾けてくださる方なのです。神殿で暴れて見せるイエス・キリストのパフォーマンスは、祈りの場を回復するための、多少乱暴ではあるけれども祈りの姿でもあるのだからです。
 イエス・キリストにおいて宗教批判を行うことによって、神は分け隔てや差別、人のいのちを軽んじる宗教性に対して否を語り行動し、いと小さき者のいのちにこそ神の御心が届けられる事を捉えかえしているのだということです。祈りの場を神殿という閉じられた場から、人が暮らす日常へと転換させ解放させることで、ヘブライの宗教性からすべての民に向かう神の愛を祈りという行動によって演じているのがイエスなのです。
 イエスの立場を継承していくなら、わたしたちの日常生活の背後にある、悪しき力に対して抗い、また疑い、主にある怒りさえも表現していく自由に招かれていくはずです。わたしたちは主イエスにある限り、まことの自由が与えられており、祈りつつ自分で考え、行動し、責任的に生きることができる道に招かれているのです。

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