コリントの信徒への手紙一 12章1~3節 「聖霊は前進し続けている」
コリントは港町であることもあり、非常に繁栄しており文化や宗教の交流が激しかったとされます。そこでパウロはコリントにおいて家の教会の連合体を形成しました。しかし、彼がコリントを去りエフェソに滞在中、コリント教会に発生した諸問題について知らされたのでした。党派問題、自由をはき違えた性的逸脱問題、食物に関する問題、偶像礼拝問題など多岐にわたってです。これらを正していこうとペンをとったのが「コリントの信徒への手紙一」です。
今日の箇所では、霊的に語ることについて述べていますが、「イエスは主である」という言葉の前に、「イエスは神から見捨てられよ」(とは言わない)という言葉を置いています。ただ、この「イエスは神から見捨てられよ」。という新共同訳は解釈が入り過ぎていますので口語訳などにある「イエスは呪われよ」と直訳したほうがいいです「イエスは呪われよ」という否定からではなく、「イエスは主である」という肯定的な態度から、教会を再構築していくことへの促しを語りかけているのです。意見の違いは教会の中に当然あります。しかし、否定からは何も生まれません。相手の存在全体をまず肯定し、受け止め、たとえ意見や立場の違いがあったとしても、またキリスト理解に違いがあったとしても、同じように「イエスは主である」との立場にあることの確認から建設的な対話が起こるはずだというパウロの信念を読み取ることもできるでしょう。
「イエスは主である」との言葉は、教会の側からの応答としての信仰告白です。しかし、パウロは、信仰告白を反故にするかのような、教会の問題の具体的な事柄を指摘します。11章を見ると、食事をめぐっての相応しさが問題となっています。つまり、裕福な人たちが先にやってきて飲み食いをしつくしてしまうので、あとからやってきた貧しい人たちが与れなくなってしまうという事態です。
また、今日の聖書に続く部分では、教会を体に喩え、役割分担に上下はない、それぞれの働きを支えているのは、同じ霊、主、神だとして、教会のつながり、その関係性を「イエスは主である」現実から捉えかえすことを求めているのです。教会内での力のあり方や優劣を相対化することによって「イエスは主である」現実に生きる一つの体であることへの促しを語りかけているのです。「イエスは主である」との告白を教会が語りうる時には、イエス・キリストの具体的な働きとしての聖霊の注ぎの事実が存在しています。イエス・キリストが今この場において働きかけてくださっているのです。それを受け止めていけばいいのです。聖霊が絶えず前進し続けている事実が確実なのですから。
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