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2018年5月

2018年5月28日 (月)

コリントの信徒への手紙一 12章1~3節 「聖霊は前進し続けている」

 コリントは港町であることもあり、非常に繁栄しており文化や宗教の交流が激しかったとされます。そこでパウロはコリントにおいて家の教会の連合体を形成しました。しかし、彼がコリントを去りエフェソに滞在中、コリント教会に発生した諸問題について知らされたのでした。党派問題、自由をはき違えた性的逸脱問題、食物に関する問題、偶像礼拝問題など多岐にわたってです。これらを正していこうとペンをとったのが「コリントの信徒への手紙一」です。
 今日の箇所では、霊的に語ることについて述べていますが、「イエスは主である」という言葉の前に、「イエスは神から見捨てられよ」(とは言わない)という言葉を置いています。ただ、この「イエスは神から見捨てられよ」。という新共同訳は解釈が入り過ぎていますので口語訳などにある「イエスは呪われよ」と直訳したほうがいいです「イエスは呪われよ」という否定からではなく、「イエスは主である」という肯定的な態度から、教会を再構築していくことへの促しを語りかけているのです。意見の違いは教会の中に当然あります。しかし、否定からは何も生まれません。相手の存在全体をまず肯定し、受け止め、たとえ意見や立場の違いがあったとしても、またキリスト理解に違いがあったとしても、同じように「イエスは主である」との立場にあることの確認から建設的な対話が起こるはずだというパウロの信念を読み取ることもできるでしょう。
 「イエスは主である」との言葉は、教会の側からの応答としての信仰告白です。しかし、パウロは、信仰告白を反故にするかのような、教会の問題の具体的な事柄を指摘します。11章を見ると、食事をめぐっての相応しさが問題となっています。つまり、裕福な人たちが先にやってきて飲み食いをしつくしてしまうので、あとからやってきた貧しい人たちが与れなくなってしまうという事態です。
 また、今日の聖書に続く部分では、教会を体に喩え、役割分担に上下はない、それぞれの働きを支えているのは、同じ霊、主、神だとして、教会のつながり、その関係性を「イエスは主である」現実から捉えかえすことを求めているのです。教会内での力のあり方や優劣を相対化することによって「イエスは主である」現実に生きる一つの体であることへの促しを語りかけているのです。「イエスは主である」との告白を教会が語りうる時には、イエス・キリストの具体的な働きとしての聖霊の注ぎの事実が存在しています。イエス・キリストが今この場において働きかけてくださっているのです。それを受け止めていけばいいのです。聖霊が絶えず前進し続けている事実が確実なのですから。

2018年5月27日 (日)

エフェソの信徒への手紙 1章3~14節「神の恵み」 山田 康博(大泉教会牧師)

 「教会」のことをギリシア語で「エクレシア」と言う。これは「エク」(外へ)、「カレオー」(呼ぶ)という言葉から来ている。つまり「エクレシア」とは「呼び出された」人々によって形成されるコミュニティのことである。今日ここに今いるのは「神によって呼び出された」のだと言える。
 詩人・作家の阪田寛夫さんに『バルトと蕎麦の花』というエッセイがある。阪田さんは、仕事をするとき長野県野尻湖畔の山小屋に来ていた。ある夏、思い立って町の教会の日曜礼拝に出席した。あから顔の小柄な牧師のふしぎな訛りのある説教を聞き、なぜかその日一日元気にすごせた。それ以来、時たま炎天下を1時間歩いて説教を聞きに行くようになった。バスに乗っていく方が少し早いが、乗り場まで歩くのに30分はかかる。月に一度、二度が三度とふえ、ここ二年ほどは、夏や秋に山小屋に来ている限り休むことが珍しくなった。東京ではそんなことはしない。
 阪田さんの通う「大草原の小さな家」風の教会(信濃村伝道所)の牧師は当時「ユズル牧師」だった。ユズル牧師の両親は利根川べりに住む小作農で、筋金入りの篤農家だった。父は17歳の時から短歌を書き始めて終生精進したという。5人兄弟の次男、ユズル牧師は農作業がだめで学校では図書室で本を読むのが好きだったという。高校の聖書研究会でキリスト教に出会い、教会へ通い始めて、洗礼を受けて、わずか2年で、高校卒業後、農村伝道神学校に進む。
 神学校への推薦書を書く牧師がユズルの両親に「牧師にならないかと勧めて、一度で『はい』と言ってくれた」という。イエスが宣教を始めた時、湖で網を打っていた漁師ペテロとその弟には、「我に従え」と声かけられると、直ちに網を捨ててイエスについて行ったことを思い起こす。
 祟りだの運勢だのと言い立てることを極度に嫌った父がなぜ賛成したのか?ユズルは他の兄弟とは正反対で、手でやる仕事はまるで駄目。これじゃとても普通の職業はつとまらない。あの子が人ないに食べていくには、本当に、牧師になるほかないと思い直し、許したのではないかという。ユズル牧師は一つだけ父親に似ていた。彼も短歌を終生つくっていた。それまで神に対して「遠く離れていた」(2:13)生活から「呼び出された」のです。福音書を読むと、最初の弟子たち、ペテロたちも、自分たちの暮らしのことしか考えていなかったそれまでの生活から、イエスによって新しい使命へと呼び出されている。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マルコ1:17)。
  教会とは、イエスにより、神によって呼び出された人々の共同体(コミュニティー)なのであり、キリストによって解放され、地上を旅する民である。

2018年5月13日 (日)

マルコによる福音書 10章35~45節 「仕える者として」

 イエスのところにヤコブとヨハネ兄弟がやってきます。この兄弟が何を願ったのかと言うと、来るべき日にキリストが栄光の座につかれるとき、一人を右に一人を左に、です。これは、イエスが栄光の王として(十字架抜きの当時の社会にあって彼らの考えたところの王として)君臨した暁には、それぞれ右大臣、左大臣にしてくれ、というものです。弟子たちの中で誰がイエスに一番近いか、誰の価値が高いのか、というひそやかな闘いにおいて、ヤコブとヨハネが抜け駆けしたのです。それに対して「他の10人はこのことで腹を立てた」、とあります。残りの弟子たちも同じようにして自分が一番であり二番になりたかった、そういう競争意識があったということです。しかし、イエスは仕える者として生きるように促します。そこで「支配者」「偉い人たち」「いちばん上」で権力者たちを示すことでヤコブとヨハネも自分たちも誰彼の上に立つような支配する側の人間になる願いを退けるのです。
 上昇志向は、人間のあり方を歪めます。誰彼と比較して、自分の方がより優れた人間であると見下す眼差しは、実はその本人の人格とか自尊心というものを貶めてしまいます。神の国は、ものを見る、考える、判断する基準というものが、この世の価値観とは全く別の事柄です。神の国の価値観からすれば「皆に仕える者」「すべての人の僕」になっていくことによって、この世の価値観に染まっているあり方から自由にされていくことだからです。他者と、より弱い人たちとつながっていくところに、それがより困難な道であったとしても、そのただ中こそイエス・キリストの道があるのです。
 この道をわたしたちはイエス・キリストから知らされているのです。ですから、ずっこけていたり、おっちょこちょいな、そして思いあがった人生も、どこかで転換されて別の生き方へと促されるのです。もっと他者と心の底でつながっていくような生き方へと。この人生の質がより豊かにされていく根拠と筋道をイエス・キリストが作ってくださっているのです。わたしたちがもっている上昇志向や思い上がり、傲慢さというものを、イエス・キリストの十字架は打ち砕くからです。わたしたちはそれぞれが与えられているところのより困難な道である強いられた十字架を強いられた恵みとして受け止めていく中で、より豊かに「神さまありがとう」ということができるのです。信じることができる道があるのです。迷っていても辿り着く場所があるはずだと信じることができるようになるはずです。
  「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(10:45)。イエス・キリストがなさった十字架への道とは、遜りと謙遜の極みとしての十字架を「多くの人の身代金として」自分のいのちをささげていくことです。このイエス・キリストに与っていくならば、わたしたちがどのような困難な道を選ばざるを得ないことが起こったとしても、それを恵みとして受け止めていくような生き方があるはずです。ここにキリスト者の希望があるのです。

2018年5月 6日 (日)

マルコによる福音書 8章27~33節 「従う道こそ」

 キリスト告白するペトロに向かって主イエスは沈黙を命じます。これは、3:11-12の記事「汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、『あなたは神の子だ』と叫んだ。イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。」から読むならば、言葉の上では正しくともペトロの告白は汚れた霊や悪霊の働きと同じだと主イエスが語っていることになります。つまり、ペトロは「神のことを思わず、人間のことを思っている」。神のことである主イエスの受難・十字架・ガリラヤでの再会としての復活を受け入れることなしに、本当のキリスト告白はありえないからです。
 ペトロや彼に代表される弟子たち、そして現代の弟子であるわたしたちは主の語りかけるところの「サタン」である事実を曲げることはできません。しかし、これは冷酷に切り捨ててしまう言葉ではないのです。「引き下がれ」とのイエスの言葉は、渡辺英俊訳では「私の後ろに直れ」となります。十字架への道行きを辿り続ける背中を基準にして「前へ倣え」をするようにとの求めなのです。ただし、それぞれの人に向かうイエス・キリストの神の招きと要求には個人差があって、それぞれに一人ひとりが、目の前の主イエスの背中を見つめて従いゆくけれども、その道は違う形をとるものなのです。
 そして真に受け止めることができたならば、この言葉は何度でも赦されうるという招きの言葉として生き生きと動き始めるのです。だからと言って、ペトロが二度と過ちを犯さない完全無比な存在として歩んだわけではありません。もちろん、わたしたちも。一度生き直しの経験をしても人間は何度でも過ちを犯してしまう弱い存在だと言えるのでしょう。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と主イエスは語り続けています。「自分を捨て」とは、自分で自分を理解している仕方から、他者の眼差しである聖書の言葉によって恥ずべき自分が知らされ正されていく方向性を獲得する意味だろうと思います。そして、その上で「自分の十字架を背負」う道を教会とのつながりの中で歩むことなのでしょう。
 ペトロ的なるものから、わたしたちは、少なくともわたし自身は自由ではありません。しかし、だからこそ主イエスの叱責の言葉が正面から語りかけられていることに裁きの意味をなくすことなく、それ以上に懐の深さゆえの主イエスの招きに応じて歩んで生きる希望のようなものを受け止めることができるのです。いわば、サタンと呼ばれつつも、主イエスによって受け入れられている事実を受け入れる、ここに従う道こそが教会に生きることであると信じるからです。

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