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2018年5月 6日 (日)

マルコによる福音書 8章27~33節 「従う道こそ」

 キリスト告白するペトロに向かって主イエスは沈黙を命じます。これは、3:11-12の記事「汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、『あなたは神の子だ』と叫んだ。イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。」から読むならば、言葉の上では正しくともペトロの告白は汚れた霊や悪霊の働きと同じだと主イエスが語っていることになります。つまり、ペトロは「神のことを思わず、人間のことを思っている」。神のことである主イエスの受難・十字架・ガリラヤでの再会としての復活を受け入れることなしに、本当のキリスト告白はありえないからです。
 ペトロや彼に代表される弟子たち、そして現代の弟子であるわたしたちは主の語りかけるところの「サタン」である事実を曲げることはできません。しかし、これは冷酷に切り捨ててしまう言葉ではないのです。「引き下がれ」とのイエスの言葉は、渡辺英俊訳では「私の後ろに直れ」となります。十字架への道行きを辿り続ける背中を基準にして「前へ倣え」をするようにとの求めなのです。ただし、それぞれの人に向かうイエス・キリストの神の招きと要求には個人差があって、それぞれに一人ひとりが、目の前の主イエスの背中を見つめて従いゆくけれども、その道は違う形をとるものなのです。
 そして真に受け止めることができたならば、この言葉は何度でも赦されうるという招きの言葉として生き生きと動き始めるのです。だからと言って、ペトロが二度と過ちを犯さない完全無比な存在として歩んだわけではありません。もちろん、わたしたちも。一度生き直しの経験をしても人間は何度でも過ちを犯してしまう弱い存在だと言えるのでしょう。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と主イエスは語り続けています。「自分を捨て」とは、自分で自分を理解している仕方から、他者の眼差しである聖書の言葉によって恥ずべき自分が知らされ正されていく方向性を獲得する意味だろうと思います。そして、その上で「自分の十字架を背負」う道を教会とのつながりの中で歩むことなのでしょう。
 ペトロ的なるものから、わたしたちは、少なくともわたし自身は自由ではありません。しかし、だからこそ主イエスの叱責の言葉が正面から語りかけられていることに裁きの意味をなくすことなく、それ以上に懐の深さゆえの主イエスの招きに応じて歩んで生きる希望のようなものを受け止めることができるのです。いわば、サタンと呼ばれつつも、主イエスによって受け入れられている事実を受け入れる、ここに従う道こそが教会に生きることであると信じるからです。

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