« マルコによる福音書 8章27~33節 「従う道こそ」 | トップページ | エフェソの信徒への手紙 1章3~14節「神の恵み」 山田 康博(大泉教会牧師) »

2018年5月13日 (日)

マルコによる福音書 10章35~45節 「仕える者として」

 イエスのところにヤコブとヨハネ兄弟がやってきます。この兄弟が何を願ったのかと言うと、来るべき日にキリストが栄光の座につかれるとき、一人を右に一人を左に、です。これは、イエスが栄光の王として(十字架抜きの当時の社会にあって彼らの考えたところの王として)君臨した暁には、それぞれ右大臣、左大臣にしてくれ、というものです。弟子たちの中で誰がイエスに一番近いか、誰の価値が高いのか、というひそやかな闘いにおいて、ヤコブとヨハネが抜け駆けしたのです。それに対して「他の10人はこのことで腹を立てた」、とあります。残りの弟子たちも同じようにして自分が一番であり二番になりたかった、そういう競争意識があったということです。しかし、イエスは仕える者として生きるように促します。そこで「支配者」「偉い人たち」「いちばん上」で権力者たちを示すことでヤコブとヨハネも自分たちも誰彼の上に立つような支配する側の人間になる願いを退けるのです。
 上昇志向は、人間のあり方を歪めます。誰彼と比較して、自分の方がより優れた人間であると見下す眼差しは、実はその本人の人格とか自尊心というものを貶めてしまいます。神の国は、ものを見る、考える、判断する基準というものが、この世の価値観とは全く別の事柄です。神の国の価値観からすれば「皆に仕える者」「すべての人の僕」になっていくことによって、この世の価値観に染まっているあり方から自由にされていくことだからです。他者と、より弱い人たちとつながっていくところに、それがより困難な道であったとしても、そのただ中こそイエス・キリストの道があるのです。
 この道をわたしたちはイエス・キリストから知らされているのです。ですから、ずっこけていたり、おっちょこちょいな、そして思いあがった人生も、どこかで転換されて別の生き方へと促されるのです。もっと他者と心の底でつながっていくような生き方へと。この人生の質がより豊かにされていく根拠と筋道をイエス・キリストが作ってくださっているのです。わたしたちがもっている上昇志向や思い上がり、傲慢さというものを、イエス・キリストの十字架は打ち砕くからです。わたしたちはそれぞれが与えられているところのより困難な道である強いられた十字架を強いられた恵みとして受け止めていく中で、より豊かに「神さまありがとう」ということができるのです。信じることができる道があるのです。迷っていても辿り着く場所があるはずだと信じることができるようになるはずです。
  「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(10:45)。イエス・キリストがなさった十字架への道とは、遜りと謙遜の極みとしての十字架を「多くの人の身代金として」自分のいのちをささげていくことです。このイエス・キリストに与っていくならば、わたしたちがどのような困難な道を選ばざるを得ないことが起こったとしても、それを恵みとして受け止めていくような生き方があるはずです。ここにキリスト者の希望があるのです。

« マルコによる福音書 8章27~33節 「従う道こそ」 | トップページ | エフェソの信徒への手紙 1章3~14節「神の恵み」 山田 康博(大泉教会牧師) »

マルコによる福音書」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: マルコによる福音書 10章35~45節 「仕える者として」:

« マルコによる福音書 8章27~33節 「従う道こそ」 | トップページ | エフェソの信徒への手紙 1章3~14節「神の恵み」 山田 康博(大泉教会牧師) »

無料ブログはココログ