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2018年4月

2018年4月29日 (日)

マルコによる福音書 6章30~44節 「飯は天です」

 今日の聖書は、人里離れたところに何故5千人もの人がいるのか想像するに、難民キャンプでの炊き出しを主イエスは奇跡として行ったのだと読めます。「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ」とあります。「飼い主のいない羊」というイメージは、旧約によれば、イスラエルの民にとって人々を導く指導者や王が存在せず統制されていない状態です。政治の混乱によって生じた難民が溢れている事態と言えるでしょう。
 イエスはガリラヤ湖を舟で移動しています。「舟」とは「教会」です。「イエスは舟から上がり」とは難民が溢れている現状に向かって教会を出ていくことの促しです。そこに課題があるとの指摘です。弟子たちはその現実から逃げようとします。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」と。しかし、イエスは「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と強い調子で命じ、弟子たちが「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と弁解がましく答えると、イエスは「五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配され」、そこでみんなが満腹し、残りも多かったというのです。このような世界観を実現するようにと促しを読み取りました。
 この記事は14:22-23のイエスの所作と対応しています「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取りなさい。これはわたしの体である。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ」。カトリック教会初期の段階でぶどう酒なしでパンだけの聖餐は展開されていたようですから、今日の5千人の食卓の記事は聖餐と無縁だとは言い切れないのです。この意味でイエスの食卓とは聖餐を閉じられたものから開かれたものへと展開していく。つまり、聖餐と愛餐が分離されていく傾向に対して、再び統合しようとする意図があることになります。これを別の物語としての聖なる食卓を新しく提示しようとするのです。わたしたちが日ごとに行っていく食卓は、どのような形であれ神に祝福された聖なるものなのです。その食卓を日ごとに受けていることへ絶えず立ち返るようにとの促しの象徴が今ある教会の礼拝における聖餐であるという理解です。
 聖餐の意義は食卓の聖さというもの、そこに与えられているところの恵みの復権でありました。誰彼が独り占めしないで、分かち合っていくこと、そのような途上に教会があるということを忘れてはいけないと、聖餐は礼拝の中に絶えず置かれ続ける儀式なのです。
 現代社会において食べることのリアルが失われてきています。その中でもう一度わたしたちが日常生活の食卓の豊かさを介して取り戻していく道をイエスに倣いつつ、金芝河(キム・ジハ)の描く「飯は天である」世界を求め、共に祈りましょう。

2018年4月22日 (日)

コリントの信徒への手紙一 3章1~23節 「教会は体」

 パウロが去った後、分派争いが起こっているコリントの教会に向けてパウロは、何処に立ち返るべきかを語っています。「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」(Ⅰコリ12:27)と。そして、民族や身分にかかわりなく、体としては一つであり、部分にはそれぞれの役割があるのだと。さらには「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。‥‥神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。」(12:22-25)とあり、より見栄えしない部分をこそ尊重するという発想があるのです。今日の聖書では「肉の人」という言葉が使われています。これは、見栄えしない事実から目を背け、格好良くしようとする意識を持った人のことです。その意識によって、キリストの体を失っていく、台無しにしてしまうという発想があることを指摘しています。
 そして、その土台にパウロは十字架という出来事を据えるのです。十字架とは、弱さ、惨めさ、軽蔑、悲惨、侮蔑、神の呪い、政治犯の死など、血なまぐさく塗られたおぞましいもの、見るのも聞くのも書くのも憚られるようなマイナスイメージの極みです。十字架に磔られ、釘打たれ、槍で刺され、傷だらけのまま血を流し続けるイエス・キリストのボロボロの体が、キリストの体理解の基本となります。
  「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。」(Ⅱコリント13:4)このようにあります。
 弱さに留まることによって強さとは別の力に促されて、一人ひとりが支えられ、さらには結ばれていく具体的なキリストの体としての教会形成の方向があるのです。冷静に、客観的に自分を見つめ直すことを踏まえながら、お互いの関係の中で力を与え合うのです。ここでの力の与え方は強さから弱さに向かって付与するイメージとは異なります。弱さを分かち合うことで急に強くなるということでもなく、別の次元で結ばれていくということです。弱さを曝け出すことによって、お互いがお互いとして今つながっていくのです。あなたのいのちは承認されているのだから、誰彼が強いとかは全く問題にならないのです。十字架から示される世界観によって、あなたのいのちは一切の条件なしに承認されていることが信じられるのです。
 様々なトラブルが教会を襲うことがあるかもしれません。しかし、弱さの中でつながることで、より豊かな生き方が待っているに違いないのです。

2018年4月15日 (日)

マルコによる福音書 5章25~34節 「苦しみから解放される」

 12年間出血が止まらないという人ですが、子宮内の出血あるいは生理が止まらないという病気であっただろうと言われています。体力も相当消耗していただろうと思います。しかも、「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった」(5:26)。病気自体だけではなくて、幾重にも苦しめられていたのです。そして宗教的・社会的な力は穢れの概念によって強化されていたのです。
 レビ記によれば、身体を覆う皮膚は対世界と自分との境目であり、重い皮膚病は、皮膚の状態があいまいになる状態です。皮膚という境界は穢れから保護しているのですが、あいまいになることで穢れが伝染ることになります。血は身体の内側にある時には聖いものであるけれど、流出すると穢れとなるとレビ記は考えています。女性の場合は細かい規定となっています。生理期間を一週間として、もう一週間して次の日に清めの儀式を行うことになっています。その穢れに期間に触れたものも穢れてしまう、とされています。
 自分の身体も相当ボロボロになっていると同時に周りの人たちからすれば穢れ続けていると判断されているわけです。神から呪われ見放されているとするならば、その人はただ単に身体の弱りだけではなくて社会から追い出されてしまうことで、存在しないかの如く扱われるようになる。そんな状態から人目を憚りながら何とか一縷の望みを胸にイエスのところにやってきたのです。そして、やっとの思いで触れることができたのです。そうしたら、治った!これを彼女は体で感じたのでした。
 この時同時にイエスも感じているのです。癒された女の人とイエスの間で心の深いところ、人間と人間の間でのつながりが回復されたことによって病自体の苦しみと社会に中での苦しみにあってもなお、生きていこうとする希望が与えられたのではないでしょうか。暖かい心が流れ込んでくる交流を感じたのでしょう。イエスに向かって癒されたことをありのまま告げることによって、自分のいのちの尊厳が決して傷つけられるはずがないというところにまで導かれたのでしょう。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」この言葉によってこの人は悪しき力から自由になっていくことができたのだということです。このイエスに対する一途な望むあり方を信仰としてイエス自身が喜んでくださったのです。今、生かされていること自体が神からの賜物であることがイエスによって承認されたことを承認することによって、自尊感情を整えることができたという物語なのです。

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