マルコによる福音書 6章30~44節 「飯は天です」
今日の聖書は、人里離れたところに何故5千人もの人がいるのか想像するに、難民キャンプでの炊き出しを主イエスは奇跡として行ったのだと読めます。「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ」とあります。「飼い主のいない羊」というイメージは、旧約によれば、イスラエルの民にとって人々を導く指導者や王が存在せず統制されていない状態です。政治の混乱によって生じた難民が溢れている事態と言えるでしょう。
イエスはガリラヤ湖を舟で移動しています。「舟」とは「教会」です。「イエスは舟から上がり」とは難民が溢れている現状に向かって教会を出ていくことの促しです。そこに課題があるとの指摘です。弟子たちはその現実から逃げようとします。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」と。しかし、イエスは「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と強い調子で命じ、弟子たちが「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と弁解がましく答えると、イエスは「五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配され」、そこでみんなが満腹し、残りも多かったというのです。このような世界観を実現するようにと促しを読み取りました。
この記事は14:22-23のイエスの所作と対応しています「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取りなさい。これはわたしの体である。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ」。カトリック教会初期の段階でぶどう酒なしでパンだけの聖餐は展開されていたようですから、今日の5千人の食卓の記事は聖餐と無縁だとは言い切れないのです。この意味でイエスの食卓とは聖餐を閉じられたものから開かれたものへと展開していく。つまり、聖餐と愛餐が分離されていく傾向に対して、再び統合しようとする意図があることになります。これを別の物語としての聖なる食卓を新しく提示しようとするのです。わたしたちが日ごとに行っていく食卓は、どのような形であれ神に祝福された聖なるものなのです。その食卓を日ごとに受けていることへ絶えず立ち返るようにとの促しの象徴が今ある教会の礼拝における聖餐であるという理解です。
聖餐の意義は食卓の聖さというもの、そこに与えられているところの恵みの復権でありました。誰彼が独り占めしないで、分かち合っていくこと、そのような途上に教会があるということを忘れてはいけないと、聖餐は礼拝の中に絶えず置かれ続ける儀式なのです。
現代社会において食べることのリアルが失われてきています。その中でもう一度わたしたちが日常生活の食卓の豊かさを介して取り戻していく道をイエスに倣いつつ、金芝河(キム・ジハ)の描く「飯は天である」世界を求め、共に祈りましょう。
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