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2018年4月22日 (日)

コリントの信徒への手紙一 3章1~23節 「教会は体」

 パウロが去った後、分派争いが起こっているコリントの教会に向けてパウロは、何処に立ち返るべきかを語っています。「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」(Ⅰコリ12:27)と。そして、民族や身分にかかわりなく、体としては一つであり、部分にはそれぞれの役割があるのだと。さらには「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。‥‥神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。」(12:22-25)とあり、より見栄えしない部分をこそ尊重するという発想があるのです。今日の聖書では「肉の人」という言葉が使われています。これは、見栄えしない事実から目を背け、格好良くしようとする意識を持った人のことです。その意識によって、キリストの体を失っていく、台無しにしてしまうという発想があることを指摘しています。
 そして、その土台にパウロは十字架という出来事を据えるのです。十字架とは、弱さ、惨めさ、軽蔑、悲惨、侮蔑、神の呪い、政治犯の死など、血なまぐさく塗られたおぞましいもの、見るのも聞くのも書くのも憚られるようなマイナスイメージの極みです。十字架に磔られ、釘打たれ、槍で刺され、傷だらけのまま血を流し続けるイエス・キリストのボロボロの体が、キリストの体理解の基本となります。
  「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。」(Ⅱコリント13:4)このようにあります。
 弱さに留まることによって強さとは別の力に促されて、一人ひとりが支えられ、さらには結ばれていく具体的なキリストの体としての教会形成の方向があるのです。冷静に、客観的に自分を見つめ直すことを踏まえながら、お互いの関係の中で力を与え合うのです。ここでの力の与え方は強さから弱さに向かって付与するイメージとは異なります。弱さを分かち合うことで急に強くなるということでもなく、別の次元で結ばれていくということです。弱さを曝け出すことによって、お互いがお互いとして今つながっていくのです。あなたのいのちは承認されているのだから、誰彼が強いとかは全く問題にならないのです。十字架から示される世界観によって、あなたのいのちは一切の条件なしに承認されていることが信じられるのです。
 様々なトラブルが教会を襲うことがあるかもしれません。しかし、弱さの中でつながることで、より豊かな生き方が待っているに違いないのです。

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