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2018年3月

2018年3月18日 (日)

イザヤ書 53章1~12節 「苦難を受ける者」

 最初の弟子たちにとって、イエスの死は、希望が失われて真っ暗闇のどん底に叩き落される経験だったことでしょう。あのイエスの死というのは全くの無駄死にだったのだろうか、と。イエスの十字架の死に対してなぜだという謎の中に陥ったはずです。
 しかし、イザヤ書53章を読むことにより、イエスの十字架は、ただ単に神に呪われ反逆者として殺されていった悲惨な処刑なのではなく、実は新しい<いのち>を照らし出し、新しい生き方への招きの喜ばしいおとずれであったとの気づきがやってきたのです。
 浅野順一は「主の僕」について以下のように規定しています。
【・主の僕とはイスラエルでありヤコブである。イスラエル国民全体を人格化したもの。・一人の人という象徴でもって同胞のために悩み苦しみ、自ら罪がないにもかかわらず他の苦難を負うところの一個の殉教者である。・代苦者。・理想的な少数者であって光の死者としての任務を苦難を通して果たす。・弱った民を励ますためにすべてを投げうってでも行う者である。】
 一人の人によって贖われる、その贖い主こそが十字架上の主イエス・キリストであった。あの苦難を受ける者、あの人によって我々は癒されたという経験をしたのです。イザヤ書53章の一つひとつの言葉がイエス・キリストを示していると読んだのです。それが頭で理解できるということではなくて、神の促しのもとで謎だったことが解き明かされて腑に落ちる、世界が一挙に別の明るさに包まれてしまう、そういう経験をしたのでしょう。
 「…彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。…彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。」
 イザヤ書53章がアーメンとして理解されることで当初のキリスト者たちは復活のキリストに気づかされたのです。この遜りの苦難を受ける僕の姿の中に教会の道が示されている。この方によってのみ、わたしたちは新しい<いのち>に与ることが赦されているのです。この事実に向かって正されていくことに希望をつないでいくことができるのです。

2018年3月11日 (日)

マタイによる福音書 20章1~16節 「神の約束」

 このたとえ話は、朝早くから働いた者も夕方1時間だけ働いた者も同じ1デナリオンもらうのが当然だという、かなり無茶な主張です。夕方の5時に雇われた人は本当に1時間しか働いていなかったのでしょうか。その人たちはおそらく、6時から雇われた人(朝早くから働いた人たち、多分身体が頑丈そうな人)と同じように朝からいたのだろうと思います。彼らは働いていなかったわけではなく、仕事を待っていたのです。ただ雇われなかっただけです。この「待つ」という行為も労働のうちと捉えるならば、労働時間は同じ、と考えることもできるかもしれません。
 わたしたちは「主の祈り」で「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈ります。この神の国のたとえがこの世のこととして起こるべきである。そのような状態を勝ち取ってみせるというイエスの一つの決断がここにはあるのではないでしょうか。確かに非常識です。しかし、でも「常識」とは一体何でしょう。イエスにとってはこれが常識なのです。
 働くことにおいて約束された賜物としてのデナリオンというのは、労働時間とか労働の質とかを基準にして合理的な判断で決められるものではない。その人がその人のままでいることにおける存在において一人ひとりが平等であると。今生きている状態がどのようなものであったとしても、価値ある者として認められ、キチンと衣食住が保証され安心して喜んで生きていけるような状態、それが良いことであるということです。
 さらに言えば、1時間働いた人も1デナリオンもらうという主張を徹底していくと、1時間も働くことができなかった人にさえ当然1デナリオン支払われるというところにまで社会保障の制度を突きつめていく方向性を今日のたとえは示しているのではないでしょうか。すべての人が1デナリオンの約束としての<いのち>が神から与えられているのであれば、労働時間とか質などが一切問われないままで、あるがままである今の<いのち>が神の側から見て良きものとして祝福されているというあり方が保証されていく。そして神の国をこの世にしていく世界観というものはただ単に内面性とか精神性とか心の問題ということに留まらず、神の愛の1デナリオンの約束はすべての人に与えられているということです。そしてそれは、そこで不満を言った長時間労働をした人に対してイエスが「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと1デナリオンの約束をしたではないか。」という約束が、すべての人に行き渡るような世界観を祈り求めていくことができるのではないでしょうか。ここから始めて行くのであれば神の約束に連なっていく可能性に対して無限に開かれているのです。

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