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2018年2月

2018年2月25日 (日)

創世記1章31節 「神のつくられたものはとてもよい」

   ~世界祈祷日を覚えての子どもとおとなの合同礼拝~
 今日はスリナムという国です。南アメリカ大陸の北東部、カリブ海に面しています。国の広さは日本の半分くらいで人口は約54万人で横浜市の中学生までの子どもの人数と大体同じくらいです。国の90パーセント以上は人が普通に暮らすことができないジャングルです。残りの10パーセントの土地にほとんどの人が住んでいることになります。それだけ緑が豊かだというのです。このことは地球を考えるときに大切なことです。人間が生きていくのに必要な酸素を生み出す豊かで美しいジャングルがあるのです。
 神はこの世界を六日間で創造して七日目に休まれました。そして「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」とは六日目目に語ったのです。この世界は何ものにも代えられないほど素敵なものなのだということです。神はすべての人が幸せに生きられるように、この世界を豊かに創造されたということです。そのために人間に役割が与えられました。
 神が創られた世界は本当に美しく、素晴らしいものであるはずです。ところが人間は欲望のために勘違いをしてしまったのです。地上のものを「支配せよ」という言葉を人間の好き勝手に何でもやっていいのだという間違った考えに囚われてしまったのです。本当は、この地上の世界を守り、世話をし、大切にするという意味から外れてしまったのです。
 ここに立ち返ることをスリナムのこれからを祈りながら考えていきましょう。スリナムは自然がとても豊かで多様な生物に溢れ、珍しい動物や鳥などがたくさんいます。また、人々も多様です。1499年にスペイン人が到着して以降、フランス、イギリスを経てオランダの植民地になりました(1975年独立)。奴隷として30万人以上のアフリカ人が連れて来られた他、奴隷制度終結を前後して契約労働者として、中国、ポルトガル、インド、インドネシア等から来た人たち、その子孫と先住民族。産業は、砂糖やコーヒー、ココアや綿などの農業の他、原油、ボーキサイトや金など地下資源もあります。しかし、金を取るために危険な水銀を使う人たちも少なくなく、環境が壊されつつあるとのことです。
 肌の色や言葉、文化や宗教などの違いを豊かさとして捉え、自然の豊かさを守り、世話をするように神から任された働きをし、スリナムの人たちの幸せを祈りましょう。スリナムの人たちが喜んで生きられるように祈りましょう。神が「見よ、それは極めて良かった」との言葉を今でも語り続けておられることを信じます。

2018年2月11日 (日)

ルカによる福音書 10章38~42節 「必要なものはただ一つ」

 御言葉を聞くマリアと奉仕するマルタはキリスト者のタイプを二分化するサンプルとされる傾向があるように思われます。しかし、重要なのは御言葉を「聞いて」「行う」ことなのです。ただ、この聖書ではマルタに問題があることは否定できません。「マルタは、のもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。『主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。』」(10:40)とあります。直接マリアに言えばいいのに、わざわざイエスを介してマリアを動かそうとしています。マルタがマリアに対して率直に向かい合っていない姉妹関係の歪みのようなものを感じ取ったのでしょうか、イエスは諭します「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」(10:41)と。マルタはもてなしをしている自分がを自己肯定できていないように思われます。「聞く」ことより「もてなす」ことを選んだ自分の選びに対しての揺らぎ、そこに「心を乱し」「混乱」があるので、仕えること、奉仕することに関して100パーセント心を注げない。おそらくは、聞きたい気持ちを抑えてでも「もてなす」ことに使命を感じてしまう優しい人なのかもしれません。
 一番重要なのは「御言葉を聞いて行う」ことです。「聞いて」寄りか「行う」寄りかに関してはグラデーションがあるでしょう。人によって違うでしょうし、自分の中でも状況によって変わるでしょういずれにしても自分のあり方を「多くのことに思い悩み、心を乱している」という仕方ではなくて、自分の意思で選び取っているかが大事です。自己肯定する仕方で教会の中で認めていく御言葉を聞いて行うことを基準にしながら自分の立ち居振る舞いを吟味しつつ、歩んで行けばいいのです。マリア的であれマルタ的であれ、教会に連なる仕方を主体的に選び取っていくのであれば、それは正しい道であり、それを主イエス・キリストは「良い方を選んだ」として認めてくださることでしょう。

2018年2月 4日 (日)

マルコによる福音書 2章23~28節 「安息日は人のために」

 イエスとその一行が麦畑を歩いているその途上で、弟子たちが麦の穂を摘んで口にしたことをファリサイ派から非難されたということですが、イエスの自由な振る舞いに対する「ためにする議論」だと考えられます。イエスの弟子たちは安息日律法を守っていないので許せない、けしからん連中だとして咎めたのです。麦の穂を摘んだということが刈り入れという労働に相当し、律法違反になっているというのです。しかし、空腹を満たせるほど生の麦を食べられるのかという疑問が生じます。これは、たまたま弟子たちが歩いている時に麦畑があって、何気なしに口寂しさを紛らわせる程度の感じで麦を摘んで口にした(ちょうどガムを噛むような感じ)という感じではないでしょうか。この非難に対してイエスは、「法は人間のために定められたものであって、人間が法のためにあるのではない」と提示したのです。ユダヤ教で言うところの安息日律法とは現代において法律に相当します。
 確かに、わたしたちの社会は法律によって整えられ、バランスを保とうとしますが、「法」が「主義」として行き過ぎてしまうことがあるのではないか。「法」「法律」とは、そもそも人間のために定められたものであって人間が法(法律)のためにあるのではないのだということです。人間は「法」によってがんじがらめにされていくものではないという、端から見れば掟破りの物語をイエスは紡いでいくのです。「法」というものを、あえて破っていく、法律違反を犯していく、当局からすれば犯罪行為に相当することを行っていくことがありうる、ということです。
 イエスのデモンストレーションを今のこととして考えていくのであれば、「法」というものに対して、もっと冷徹な目をもっていること・行動していくことがありうるのです。「法」では括れない大切なものがあることを知っている、それだけでわたしたちのものの考え方とか生きている物語とかは変わってくるはずです。イエスはあえて安息日に挑発的に色々なことをしました。安息日に代表されるような「法」「掟」「決まり事」「お約束」というものによって、ないがしろにされていくいのちがあり、それに対して「法」が大事なのか、それともそこに今生きていて呻いている一人の人のいのちを尊重するのか、どちらを選ぶのかという問いを投げかけた。もっと、より豊かな生き方を目指すことができるはずだ。そのように信じていたからこそ、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」と言い切ることができたのです。
 これを現代のわたしたちはどのように受け止めるのか。教会は「法」というものを無化することもあるかもしれないし、乗り越えようとすることもあるかもしれない。確かに「法」によって整えられ生かされてはいるけれども、そこから外れてしまうような仕方で苦しんでいる人たちと同じ地平に立つ仕方で「法」というものを乗り越える可能性に絶えず開かれているのです。このような自由さに招かれているのだということをイエスは聖書を通して語りかけているのです。

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