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2018年2月 4日 (日)

マルコによる福音書 2章23~28節 「安息日は人のために」

 イエスとその一行が麦畑を歩いているその途上で、弟子たちが麦の穂を摘んで口にしたことをファリサイ派から非難されたということですが、イエスの自由な振る舞いに対する「ためにする議論」だと考えられます。イエスの弟子たちは安息日律法を守っていないので許せない、けしからん連中だとして咎めたのです。麦の穂を摘んだということが刈り入れという労働に相当し、律法違反になっているというのです。しかし、空腹を満たせるほど生の麦を食べられるのかという疑問が生じます。これは、たまたま弟子たちが歩いている時に麦畑があって、何気なしに口寂しさを紛らわせる程度の感じで麦を摘んで口にした(ちょうどガムを噛むような感じ)という感じではないでしょうか。この非難に対してイエスは、「法は人間のために定められたものであって、人間が法のためにあるのではない」と提示したのです。ユダヤ教で言うところの安息日律法とは現代において法律に相当します。
 確かに、わたしたちの社会は法律によって整えられ、バランスを保とうとしますが、「法」が「主義」として行き過ぎてしまうことがあるのではないか。「法」「法律」とは、そもそも人間のために定められたものであって人間が法(法律)のためにあるのではないのだということです。人間は「法」によってがんじがらめにされていくものではないという、端から見れば掟破りの物語をイエスは紡いでいくのです。「法」というものを、あえて破っていく、法律違反を犯していく、当局からすれば犯罪行為に相当することを行っていくことがありうる、ということです。
 イエスのデモンストレーションを今のこととして考えていくのであれば、「法」というものに対して、もっと冷徹な目をもっていること・行動していくことがありうるのです。「法」では括れない大切なものがあることを知っている、それだけでわたしたちのものの考え方とか生きている物語とかは変わってくるはずです。イエスはあえて安息日に挑発的に色々なことをしました。安息日に代表されるような「法」「掟」「決まり事」「お約束」というものによって、ないがしろにされていくいのちがあり、それに対して「法」が大事なのか、それともそこに今生きていて呻いている一人の人のいのちを尊重するのか、どちらを選ぶのかという問いを投げかけた。もっと、より豊かな生き方を目指すことができるはずだ。そのように信じていたからこそ、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」と言い切ることができたのです。
 これを現代のわたしたちはどのように受け止めるのか。教会は「法」というものを無化することもあるかもしれないし、乗り越えようとすることもあるかもしれない。確かに「法」によって整えられ生かされてはいるけれども、そこから外れてしまうような仕方で苦しんでいる人たちと同じ地平に立つ仕方で「法」というものを乗り越える可能性に絶えず開かれているのです。このような自由さに招かれているのだということをイエスは聖書を通して語りかけているのです。

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