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2018年1月

2018年1月14日 (日)

マタイによる福音書 5章43~48節 「敵を愛せるのか」

 ユダヤ教において「隣人を愛す」と言うときには、律法をきちんと守っている正しい同胞としてのユダヤ人が想定されています。同じ信仰を持っている人たちの仲間内での閉じられた愛なのです。たとえて言うと実線で囲われた枠の中に自分たちが収まることによって、自らが正しいユダヤ教徒であることに安心する構造があります。
 人間の共同性のあり方は、結集力を強めるためにはその枠から弾かれる人たちが必要とされます。つまり実線で囲われた正しい人たちの枠に自分たちが入っているためには、排除の力が必要とされるということです。そのために生み出されたのがいわゆる「罪人」「地の民」という概念であって、その罪人の中には徴税人や異邦人などが含まれるのです。この人たちを共同性から排除することによって枠をきっちりと強化するのです。
 律法を読んでも実は「敵を憎め」という言葉は書いてありません。「隣人を愛し、敵を憎め」という言葉をイエスが使ったのは何故か。それは隣人愛の本質を見抜いているからです。隣人を愛すということの中に敵を憎むことが含まれている、そのような質を持っている隣人愛というものをイエスは疑っているのです。
 「しかしわたしは」と続けるイエスは、「隣人を愛し、敵を憎め」という枠によって閉じられている人間関係のあり方を批判し、内と外を分け隔てている実線を解体したのです。「敵を愛せ」という言葉で枠を乗り越えたのです。ここから照らしてみるならば、自らがいる場所とか所属という枠の内側で、自分が自分であると安心していることは、イエスの教えに適っているのか、とわたしたちが問われていると言えます。
 神から祝福されておらず、人からも愛されていない、認められていないことによって貶められていく存在と同じ地平に立つことをイエスは志したのです。「罪人」という概念を規定する基準そのものを無化するためにイエス・キリストは来たということです。そのことによってイエス・キリストは、敵を愛すことから敵を作り出してしまう発想自体を打ち壊すのです。
 イエス・キリストに教えを見いだしていくのであれば、わたしたちはもっと自由になれるはずです。敵を作り出してしまうことによって、自分たちが縛られ、不自由にされている現実から自由になるために、今一度「隣人を愛し敵を憎む」物語を壊すところに立つべきなのです。敵だと信じられている人たちの顔や姿や言葉や、その人のいのちが全く違ったものに見えてくる関係の中に、イエス・キリストが教えたところの神の国の欠片を見いだすことができるに違いないのです。

2018年1月 7日 (日)

マタイ5:38-42「悪人に対峙するときに」

 「悪人に手向かってはならない」という言葉をイエスが語った時にどういう方向を指し示しているのかということを確認したいと思います。前提となっているのが、旧約の律法の「目には目を、歯には歯を」ですが、これは古今東西古くからあるものの考え方で、いわゆる「同害報復法」です。同じ害に対して同じ償いをさせるという発想です。これは旧約にはいくつかあります(出エ21:24-25、レビ24:20、申19:21など)。
 ここで言われている三つの事柄「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。」「だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。」は皆、理不尽な要求や仕打ちに対し、それ以上のことをしてやりなさいという勧めです。ここでいう「悪人」は、単に「悪い人」というより、権力を振りかざす者、というニュアンスです。権力者・抑圧者に対して庶民の知恵としてイエスは挑発的な、だけどもいのちの危険性が比較的少ないような抵抗、ささやかなユーモアによる抵抗とか反逆を提示しているように思えます。
 「同害報復法」だと一件落着するかもしれないけれども、強いられる者たちの鬱屈とか自尊心の傷つけられ方とかが、そのまま置き去りにされてしまう可能性があります。そうではなくて、もっと見方、ものの考え方を変える、もう少し違う角度から物事を見つめることで、ユーモアの幅がここには生まれてくる可能性がある。しかも権力に対して抗う思想を作り出していくこともできる。そのような仕方でイエスはここで言われている事柄に対して「しかし」と主体的に展開していくのです。
 悪人に対峙する、わたしたちにとって「悪人」とは誰なのか、きちんと押さえた上で、知恵を働かせ、機転の利いたユーモアのある、抵抗運動(運動と言うと大袈裟ですが‥)とか反抗とかを展開していく。そこまでできなくても、波風を立ててみる。「悪人に手向かってはならない」というのは、相手の為すがままに委ねることではなくて、そこでユーモアとかウィットとか、そんなものを忘れないで、色々なことのできる可能性のあることを覚え、よく考えていきながら応答していくことなのではないでしょうか。

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