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2017年12月

2017年12月31日 (日)

マルコによる福音書 2章18~22節 「新しい祈り」 横田幸子

 今日の聖書の箇所は新しい時代の到来がたとえをとおして語られているところです。三つの日常生活的なことが挙げられています。一つは婚礼の時には断食はしない。二つ目は、古い布の破れをつくろうには、新しい布は使わない。三つ目は、新しいぶどう酒は、古い革袋に入れない、ということです。いずれも当たり前のことですね。日常生活の中で、人々が身につけていることです。そのとおりだとすませてしまうこともできることです。でも「たとえ」に託して、真理を語るのがイエスの宣教方法です。みなさんは、この日常の出来事から、どんなメッセージを受け取られるでしょうか。
 著者マルコは、イエスのもたらした言葉と実践=「福音」は、従来の形式としてのユダヤ教の生活様式のなかに収めようとしても無理なのだ、新しい生活様式を生み出していく必然性がある、ということだと主張しているのです。
 イエスが2000年前にユダヤ社会に登場したとき、イエスの発言と行動は人々に衝撃を与えました。今までの預言者や指導者が語ること為すこととはまるで違う、という印象を人々はもったのです。会堂ではじめてイエスの話を聞いた人々は、「非常に驚いた。権威ある者のようだ」(1:22)と。人々にすれば、知識的な理解を促す言葉ではなく、即、心に響く言葉であったのでしょう。「神の言葉が自分にも聞こえた」ということです。
 その心に届く言葉が行動に表れたとき、悪霊にとりつかれている男を正気に戻させることになったり、家を捨ててイエスに従って来たはずのペトロのしゅうとめが熱を出していると聞くと、すぐにその家に出かけてしゅうとめの病を癒す。人々から隔離されている思い皮膚病(レプラ)の人が勇気を出して訪ねてくると、イエスは抱きかかえるようにして癒します。人々にも、常識を逸したかのような行動が生じ、イエスも人々も共に心と体に生じる情念を外に表わしたのです。
 イエスの言動は、宣教テーマであった神の国の内実を示すものでした。神の国とは、神が生きて働く現実のことです。イエスはそれを体現させました。平たく言えば、生きることの喜びです。イエスの伝道の基調旋律は喜びなのです。喜びを伝達することと同時にイエス自身が喜び・福音そのものだということをマルコ福音書は証言しているのです。
 マルコの言う「福音」は、他の福音書やパウロの手紙によれば「復活のイエスとの出会い」ということになります。2000年後に生きるわたしたちにも与えられている「いのちの在り方」です。
 喜びを共にする生き方を逆転させて言うなら、苦しみや悲しみを共に担う生き方です。今現在における、それらの内実を込めた祈りを、「新しい祈り」として編んでみました。
                  (別紙でプリント配布)

2017年12月24日 (日)

マタイによる福音書 1章23節 「わたしたちの仲間として」

 イエスという名前はヨシュアから来ています。「神は救う」「神の救い」という意味です。その中身がインマヌエル、すなわち「神は我々と共におられる」というのです。
 わたしたちの待つべき主は、インマヌエル、すなわち「神は我々と共におられる」という方として来られるのです。その方が平和の王として到来するのです。あらゆる隔ての中垣を打ち破ってでもこの世に来られようとする方を一緒に迎える時が、クリスマスです。
 主イエス・キリストの神は、わたしたちのもとに「まことの王」として来られます。そして、やがて来られる日に向かってわたしたちは歩んでいます。わたしたちは毎年クリスマス、幼な子主イエスが飼い葉桶に来てくださったことに対して感謝をもって迎えるのです。神がわたしたちと共にいてくださって、そのことを神ご自身が望んでおられるので、今年もまたわたしたちはクリスマスを迎えるのです。
 マタイによる福音書の最後には主イエスの言葉として「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」とあります。つまり、インマヌエルすなわち「神は我々と共におられる」を貫かれるところの神ご自身がイエス・キリストとして「まことの王」なのです。
 天においても地においても謙遜と遜りにおける平和の主イエス・キリストこそが「まことの王」であるのです。その王とは、むやみやたらに暴力をもって権力を振るい、人を抑圧し、不自由を与えることはありません。
 クリスマスとは、人はひとりぼっちではなくて、誰かと一緒に生きているという心からの実感をもたらす出来事です。隔ての中垣の力に抗い、人と人とが立場や思想や文化などの違いを乗り越えて、つながっていこうとするものです。
 主イエスは、人は誰も無関係に生きているいのちなのではなくて、誰かと一緒に生きているという実感を心の奥底から作り上げてくださる王としての神なのです。だから、どんなに寂しく孤独で悲しくても、わたしたち一人ひとりに向かって「あなたは一人じゃないよ、きっと大丈夫」と支えて慰め、励ましてくださる神なのです。主イエスが生まれてくださったことが示すのは、お互いのいのちを喜び合っていく可能性がいつでもあるということなのです。生き生きと生きられるように守ってくださるために今年もまた、この夜に、まことの友として、仲間として主イエスが生まれてくださるのです。この仲間であり、友である主イエス・キリストの誕生を、喜ばしき神の歴史への介入の出来事として心に刻む時を、わたしたちのクリスマスにしましょう。ここから平和への祈りを深めながら歩む道行きに連なる者として生かされて行くことによって、神の思いに応えていくことへと招かれていることを確認しながら、ご一緒に祈りましょう。

2017年12月10日 (日)

ルカによる福音書 1章26~38節 「お言葉どおり」

 ガブリエルとマリアとの問答の中で言葉の位相が深められてきています。ガブリエルが現れて挨拶をし、マリアはそれに対して戸惑って考え込んだ。恐れるなと語りイエスと名付けることが続きます。マリアはそんなことがあるのかという言葉に対してガブリエルがエリサベトのことを持ち出して「神にできないことは何一つない。」(1:37)と言い、マリアは「わたしは主のはしためです。」と続けられます。36節の最初と38節のマリアの言葉の前に新共同訳では翻訳されていないイドゥとい単語があります。「見よ」という意味です。このイドゥ、見よという言葉に込められていた意味合いを考えたいと思います。36<節ではガブリエルが考え込んでいるマリアに対して、エリサベトの状況をよく見て考えてごらん、ほら、こんな風になっているじゃないですか、という感じでしょうか。ガブリエルの「見よ」に応答してマリアが言う「見よ」は、「ほら、ご覧ください、」という強調でしょう。ですから、続いて、自分が主のはしためであると答えたのは、自己卑下ではなく、むしろ選ばれた者として、そうなりますようにと、言われた言葉を正面から受けて立つという意志表明ではないでしょうか。
 神の側からの積極的な働きかけということを根拠にして主体的に立っていくということです。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」とあるのは、わたしはどのような道を選び取っていくのかを自分の身体を委ねていくという決断です。この決断はヨセフの許婚でありながら子を産むということです。ヨセフは密かに離縁しようと思ったのですが生むことになります。しばしばヨセフがマリアを密かに離縁しようと思ったのは、ヨセフの自己保身という都合・体裁・体面を保とうとしたと捉えられることがありますが、マリアによりバッシングが及ぶことを少しでも避けようと思ってのことであったという説が最近は有力です。その方が律法の「姦淫の罪」から免れる可能性があるためです。マリアを晒し者にしたくなかったのです。
 ところがマリアは、そうしなかったのです。姦淫の疑いによるバッシングをあえて引き受けていくという覚悟を決めたということです。神の意思に巻き込まれてしまっている中で、自分の身がどのようになるかということも含めて「お言葉どおり、この身に成りますように」と、神の導きの中で、あえて困難な道を選んでいくまことの主体的なあり方がここにはあります。
 信仰者の生き方というものは、マリアのあり方に学ぶべきところがあるはずです。たとえば、自分の歩むべき人生の中でいくつもの選択肢がある、そこで神の導きにおいて自分が選ぶべきは神の側から発せられた言葉に対して「お言葉どおり、この身に成りますように」として、受動において主体を生きるときには、あえてより困難で危険な道を選ばなくてはならないこともあるということです。

2017年12月 3日 (日)

ルカによる福音書 1章5~25節 「喜びの知らせ」

 当時子どもがいないということは、とりわけ男の子がいないということは大変つらいことでした。ただ単に跡取りがいないということだけではなく、神の祝福から漏れて罰のようなものを受けているとされたのでした。周りも自分たちもそう思っていました。そのような老夫婦を神は用いて、イエスの先駆けであるところの洗礼者ヨハネを生み出した、という物語です。ザカリアは、これだけ一生懸命、神に仕え人に仕えて祭司という務めをなしてきたのだけれども子どもがいなかったのです。子どもが生まれると言われても、疑念が起こったのは当然のことです。その神の思いに、神の働いている歴史に巻き込まれてしまっているザカリアは、「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」と「しるし」を求めてしまったがゆえに、口が利けなくなってしまいました。祭司にとっては相当なハンディキャップです。
 祭司というのは単に儀式を執り行うだけではなくて、神の想いや赦しや祝福を民に対して言葉でもって伝えるという役割が与えられていたわけです。祭司にとって言葉を発することができないことは、かなり致命的なことでした。おそらくザカリアは言葉を発することができなくなった分、今度は言葉に込められた思いを自分の側に内省する態度で、神ご自身の働きかけに関して、願いつつ待つことが深められていったのではないでしょうか。口が利けるようになったとき、今度は語りかけていくことができるのです。口が利けないということがただ単に神に対して「しるし」を求めたことによる罰のようなものではなくて、むしろ恵みの時として、「他者に対して沈黙することによって待つ」ということが与えられたのです。
 わたしたちもこのザカリアに学びたいと願います。他者に向かって沈黙が強いられる仕方で自らの想いを内側に対して深めていくことによって待つということ、そして委ねていくということ、時を見極める力を磨いていく態度を。主イエス・キリストは今年も必ずやって来られるがゆえに、その先駆けとなった洗礼者ヨハネの誕生の物語を思い浮かべながら主を待ちましょう。他者に対する沈黙が強いられ、自らに向かって内省したザカリアの物語からわたしたちは、本当のところ神の思いはどこにあるのかを待つことを学ぶようにと促されているのです。この待つことによって心静めつつ、喜ばしい知らせを待ちながら歩んでいきましょう。

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