マルコによる福音書 2章18~22節 「新しい祈り」 横田幸子
今日の聖書の箇所は新しい時代の到来がたとえをとおして語られているところです。三つの日常生活的なことが挙げられています。一つは婚礼の時には断食はしない。二つ目は、古い布の破れをつくろうには、新しい布は使わない。三つ目は、新しいぶどう酒は、古い革袋に入れない、ということです。いずれも当たり前のことですね。日常生活の中で、人々が身につけていることです。そのとおりだとすませてしまうこともできることです。でも「たとえ」に託して、真理を語るのがイエスの宣教方法です。みなさんは、この日常の出来事から、どんなメッセージを受け取られるでしょうか。
著者マルコは、イエスのもたらした言葉と実践=「福音」は、従来の形式としてのユダヤ教の生活様式のなかに収めようとしても無理なのだ、新しい生活様式を生み出していく必然性がある、ということだと主張しているのです。
イエスが2000年前にユダヤ社会に登場したとき、イエスの発言と行動は人々に衝撃を与えました。今までの預言者や指導者が語ること為すこととはまるで違う、という印象を人々はもったのです。会堂ではじめてイエスの話を聞いた人々は、「非常に驚いた。権威ある者のようだ」(1:22)と。人々にすれば、知識的な理解を促す言葉ではなく、即、心に響く言葉であったのでしょう。「神の言葉が自分にも聞こえた」ということです。
その心に届く言葉が行動に表れたとき、悪霊にとりつかれている男を正気に戻させることになったり、家を捨ててイエスに従って来たはずのペトロのしゅうとめが熱を出していると聞くと、すぐにその家に出かけてしゅうとめの病を癒す。人々から隔離されている思い皮膚病(レプラ)の人が勇気を出して訪ねてくると、イエスは抱きかかえるようにして癒します。人々にも、常識を逸したかのような行動が生じ、イエスも人々も共に心と体に生じる情念を外に表わしたのです。
イエスの言動は、宣教テーマであった神の国の内実を示すものでした。神の国とは、神が生きて働く現実のことです。イエスはそれを体現させました。平たく言えば、生きることの喜びです。イエスの伝道の基調旋律は喜びなのです。喜びを伝達することと同時にイエス自身が喜び・福音そのものだということをマルコ福音書は証言しているのです。
マルコの言う「福音」は、他の福音書やパウロの手紙によれば「復活のイエスとの出会い」ということになります。2000年後に生きるわたしたちにも与えられている「いのちの在り方」です。
喜びを共にする生き方を逆転させて言うなら、苦しみや悲しみを共に担う生き方です。今現在における、それらの内実を込めた祈りを、「新しい祈り」として編んでみました。
(別紙でプリント配布)
最近のコメント