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2017年11月

2017年11月19日 (日)

マルコによる福音書 9章33~37節 「子どものように」

 今日の聖書で主イエスは子どもの手を取って弟子たちの真ん中に立たせ、抱き上げて受け入れています。あるがままの姿で成長し続けていく存在として捉えているのです。主イエスが抱き上げた「このような子ども」の一つのモデルとして、加古里子さく・えの『だるまちゃんとてんぐちゃん』を見てみたいと思います。だるまちゃんは、仲良しのてんぐちゃんの持っているようなうちわが欲しいと、お父さんのだるまどんにおねだりします。だるまどんは、様々なうちわを持ってきてくれました。しかし、だるまちゃんが欲しいうちわはありません。だるまちゃんは、いいことを思いつきます。ヤツデの葉っぱで、お手製のうちわをつくって納得します。次はてんぐちゃんの帽子、そしてその次は履きものが気になります。その度に家に帰って、お父さんのだるまどんにおねだりします。だるまどんはたくさん集めてきてくれますが、やっぱり「これだ」というものは見つからないのです。そしてだるまちゃんは帽子にはお椀を、履きものにはまな板を、自分で考えて工夫して使います。どれもてんぐちゃんに褒められて嬉しくなります。そして最後は、てんぐちゃんのような、赤くて長くて、とんぼがとまる鼻がほしいと言い始めます。そこでお父さんのだるまどんが探してきたのは、咲く方の花だったのです。【「ちがうよ ちがうよ まるでちがうよ。ぼくの ほしいのは さいている はなでなくて かおにある はなだよ」「ごめん ごめん。これは おおまちがいの とんちんかん」と、お父さんのだるまどんは謝って、それからお餅をついてコロコロ丸めて形のいい鼻を作ってくれました。その鼻に雀が止まるほどだったのです。】「すずめが とまるなんて だるまちゃんの はなは いちばん いい はなだね」と、てんぐちゃんも一緒に喜んでくれました。
 ここでは、子ども同士のつながりがまず第一に大切にされています。大好きな友だちと同じようになりたい、お友だちの真似をしたいという気持ち。そして、想像力の力でうちわも帽子も履物も素晴らしい「まねっこ」が出来上がりました。興味深いのはお父さんのだるまどんです。必要最低限しか子ども同士の関係に手出しをすることはありません。しかしだるまちゃんが行き詰った時には、「よーし!引き受けた」という感じで子ども同士の「まねっこ遊び」に本気で付き合うのです。
 この絵本からは色々なことを教えられます。まず第一に子ども同士の自由な「まねっこ遊び」、広く言えば「ごっこ遊び」の中で子どもは成長していくということ。自分と友だちの違いを知り、その違いを埋めるための工夫をすること。でも、やっぱり同じにならないし、だからこそ、一人ひとりの違った良さがあること。そして、お互いにそれを認め合うこと。おとなはそれを見守り、子どもだけでは解決できないときには、本気で遊びに付き合うことも必要な時があるということ。そして、間違った時には、悪かったと認め、キチンと子どもに謝ること。
 ここでは誰が一番なんていうことは全く関係ありません。お互いが嬉しい気持ちや楽しい気持ちを分かち合っていくことに重点が置かれています。そんな仕方で子どももおとなも一緒に神の子どもとして生きていくことができたらと思います。

2017年11月12日 (日)

マタイによる福音書 5章33~37節 「誓ってはならない」

 古代人も現代人も、そして暮らしている国や地域、人が何かしらの共同的な価値観の中で、公的には法的な縛りが「期待される人間像」として強制的に、あるいは口に出さない仕方かも知れないけれど、人の心に何気ない常識などの仕方で、要求される生き方があるように思われます。他の人の振りを見ながら自分を確認するみたいな。マタイによる福音書の主イエスは説教という形でどのように生き残り、生き延び、今の包んだ命に再び輝きをもたらすために語りかけています。マタイによる福音書5章から7章は、いわゆる「山上の説教」と呼ばれています。
 主イエスの説教の言葉の感覚は通常の順説としては理解しがたいものだったと想像できます。当時の社会の価値観の中での通常の言葉のセンスに同調している人にとっては理解しがたい、あるいは反発を覚えるようなものであったはずだからです。当時のユダヤ人社会はローマの支配下にあって、ローマに歯向かわない限りにおいてユダヤ教の信仰とその生き方が許されていました。そこで律法とその解釈によって、ユダヤ人としてより良い、神に祝福され喜ばれる生き方をファリサイ派は人々に教えていたのです。しかし、誰もが守れるものではありません。むしろ、庶民にとっては自分が神から見捨てられた存在であることの迫りとして感じられることが多かったのではないでしょうか。律法とは本来、神から与えられた神に喜ばれる生き方の教えです。それに解釈が加えられ、守れないことに対して「罪人」との烙印が押される時、守れる人の自己満足は守れない人の存在によって確信が与えられ、守れない人に対しては守れる人からの言葉の内にも外にも攻撃的な冷たいまなざしが注がれていたのでしょう。
 イエスは、「山上の説教」の中で、聞く人たちの心に「?」疑問符を抱かせる仕方で、本当に生きるために必要なことや大切なことを語りかけたのです。とりわけ、今日の聖書の周辺には六つのテーマが展開されています。旧約の律法において「命じられている」ことを示しておいて、その言葉の上っ面ではなくて徹底的に神に向かう方向性を「しかし、わたしは言っておく」と語り始めるのです。
 しかし、これらの言葉を順接として文字通り理解しようとすれば無理難題を押し付けられてしまい、究極の禁欲主義者になる他ないように読み取れてしまいます。主イエスはまことの意味で自由な方です。律法とその解釈が如何に庶民を縛り、窮屈にさせ、苦しめていることを知っていたのです。それであえて「罪人」と呼ばれる人々と「汚れた」食卓を囲んだのでしょうし、事実 11:19 では「人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」と主イエス自身が語っています。
 今日の主イエスの言葉は「一切誓いを立ててはならない」です。この言葉が示す方向性を共々今のこととして確認できればと願っています。「誓い」とは、神に対して、願うことに背かないという約束のことです。人間の側からの誠実な応答の態度、決断の態度に向かう意志があるのでしょう。より良い生き方を目指す向上心が意味されているかもしれません。しかし、このような真面目な人間の態度には、どこか落とし穴があってできもしないことをできるかのように錯覚してしまうようにして自分自身の思いが必要以上に膨れ上がってしまうことがあるのです。自分に対する評価を現実以上に見せかけ、また自分で信じてしまうみたいな自覚されない傲慢さによってです。ここのところを旧約の律法は分かっていたのです。「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。(マタイ5:33)  「わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。それによってあなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。」(レビ記19:12)。
 主イエスは、「しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。」として、そもそも誓いということ自体の一切を否定し、無化していくのです。ここで注意したいのは、「誓い」が何かにかけて行われている点です。
①天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。
②地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。
③エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。
④また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。
 ここで4<点が語られます。すなわち「天」「地」「エルサレム」「自分の頭」です。「髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである」とあるように限界が与えられ、全能であるはずのない欠けた者が、全能者であるかのごとく、自分の思いのままにならないものを自分で自由に扱えるようにして、つまり、「天」「地」「エルサレム」「自分の頭」を自分の意味ママにできるかのごとく錯覚することで「かける」仕方で、自らが負わねばならない責任から逃げてしまう、そんな生き方ではダメなんだ、ということです。この聖書の箇所について荒井献は以下のように述べています。
【さて伝承の元の形では、イエスはどのような意味で「誓いを立てる」ことを禁じたのであろうか。彼は最後に、相手の問いに対して、諾否を正直に答えることを勧めているのであるから、近代的・現代的な意味で誓約の一切を禁止した、ととるべきではない、と私には思われる。古代においては(もちろん現代においてもその例は多いが)、誓いは何かに「かけて」行われた。とくに、「神の名にかけて」なされることが一般的であった。何よりもまず、そうすることをイエスは禁じている。とすればイエスは、人が神の名にかけて誓うことにより、自分の責任を神に転化し、それによって自分の行動を正当化することを禁じたことになろう。これから為そうとする自分の応答あるいは行動については、正直に、自分で責任をとれ、ということである。これが本当の「成人」の生き方ではないか。】
 このように荒井は論じています。その上で少し後で次のように結論付けていきます。
【自分の行動を、自分の力で絶対化してはならない。人が常に他者と同じ地平に立ち、他者の問いに開かれていくためには、自己絶対化を否定する神によって、人間とはそもそも無力であることを知らされていなければならない。自己を絶対化し、他者の問いに自らを閉ざす者は、神の裁きを受ける。……成人した人間は、自らの責任で、しかも常に自らが相対的存在であることを自覚しつつ、正直に、「然り」を「然り」と言い、「否」を「否」と言うであろう。】
 荒井は、このように今日の聖書の方向性を示します。とするならば、わたしたちはどのように「一切誓いを立ててはならない」という主イエスの言葉を受け止め、行動していけばいいのでしょうか。厳しい裁きの命令の言葉ではなくて、新しい生き方への招きの言葉として聞かれることはできないのでしょうか。
 以下について上田紀行と対話しながら結論とします。
 そもそも何かにかけて誓ってしまうような人間の性の背後を見つめる必要がありそうです。何かにかけて誓うということは、その何かに根拠をおくということです。平たく言えば○○のせいにするということです。自分の関わる物事に対しても自分の状況に対しても○○のせいにすることによって合理化する態度が隠されているのです。思い通りにいかない状況におかれた可哀想なわたしの現実を○○のせいにしてしまえば確かに楽なのです。自分は悪くない、○○のせいなのだからと自己合理化してしまう心の仕組みです。これが自分の中で起こってきたのか、また誰かによって強いられ刷り込まれた発想なのかは人による、あるいは状況によるのでしょうが、思いどおりにいかない現実を前にして、それが事実なのか解釈や思い込みに過ぎないかを自分の中でチェックする必要がありそうです。その立ち止まりは、自分の中に隠された発想あるいは行動のパターンを自覚することへと導かれていくはずです。
 どうして自分は、このような時にこのように発想し考え行動してしまうのか、そして不自由へと縛られていくのだろうか。その原因を、○○のせいで、と決めつけていたことを辞めることで、自由な意思がクリエイティブに働き始めることに委ねていけ、そのように主イエスは促し、新しい生き方へと招いているのではないでしょうか。
 一切を誓わない生き方とは、○○のせいにすることで不自由なわたしへと閉じられている状況から自由に向かって歩みだしていくことです。誓うことは自分で自分の首を絞めるようなものです。それを解きさえすればいいのです。「一切を誓ってはならない」という言葉は、このような意味で解放への招きの言葉なのです。この意味で主イエスの守りの中で、本当の意味での主体的なあり方をわたしたちは獲得できる道へと招かれているのです。

2017年11月 5日 (日)

ローマの信徒への手紙 14章7~9節 「自分のために生きる人はなく」

(永眠者記念礼拝)

 7節は新共同訳では「自分のために」とありますが、田川建三訳では「自分自身に対して」となっています。田川は翻訳の根拠を註で以下のように述べています。
【これは口語訳等のように「自分のために」と訳すと誤解を生む。日本語で「自分のために生きる」なんぞと言われると、自分勝手な利己主義者で、他人のことを考慮しない、といったような意味に受け取られてしまう。ここはそうではなく、人間の生はそれ自体として存在しているわけではなく、神と向かいあうものとしてあり、という意味。神との関わりにおいてしか人間は存在しない、というのである。だから次節で「死のうと生きようと、我々は主のものだ」と言っている。】
 わたしたちが生きているものであれ、死んでいるものであれ共々主のものである、というところに一つの慰めがあります。鏡に映った自分だけを見つめて生きることはできません。人は他者と向き合って、他者に対して生きるのであり、その他者の先にも神はいるのです。神と向き合い神に対して生きるとは、必然的に他者に対して生きることです。その他者とは誰か。
 使徒信条」に「死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人うちよりよみがえり、」とあります。「死にて葬られ、陰府にくだり」というのは、イエス・キリストご自身が一度確実に死を迎えたということです。田川が解説するようにパウロの主張は「神との関わりにおいてしか人間は存在しない」のです。つまりは、イエス・キリストの十字架によって非常に確実な、誰もがどのような力によっても断ち切ることのできない絆があるので、故人を思い起こすときに、それはただ単なる思い出とか懐かしさだけではなくて、生の世界と死の世界が結ばれ、育まれていることに希望を抱くことが赦されているのです。もしも故人に対して負の思いがあったとしても、その関係は固定化されず、神のもとで整えられていく、ということです。
 生きている者も死んでいる者も共々主のものなのです。イエス・キリストの力の及ばない領域はないのです。生きている者も死んでいる者も、両方ともイエス・キリストの十字架のゆえに、愛されているかけがえのないいのちなのです。生きている者の国にあるいのちも天に召されている向こう側のいのちもイエス・キリストの神から見れば等しく尊く慈しまれている具体的な存在なのです。このことのゆえに、わたしたちは生きている者の責任として神のもとに召されている者を覚え、今生かされている者も神のもとにいるお一人おひとりもイエス・キリストの愛のゆえに、その関係はより豊かにされ、より確かなものとされ、育まれているのです。

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