マルコによる福音書 9章33~37節 「子どものように」
今日の聖書で主イエスは子どもの手を取って弟子たちの真ん中に立たせ、抱き上げて受け入れています。あるがままの姿で成長し続けていく存在として捉えているのです。主イエスが抱き上げた「このような子ども」の一つのモデルとして、加古里子さく・えの『だるまちゃんとてんぐちゃん』を見てみたいと思います。だるまちゃんは、仲良しのてんぐちゃんの持っているようなうちわが欲しいと、お父さんのだるまどんにおねだりします。だるまどんは、様々なうちわを持ってきてくれました。しかし、だるまちゃんが欲しいうちわはありません。だるまちゃんは、いいことを思いつきます。ヤツデの葉っぱで、お手製のうちわをつくって納得します。次はてんぐちゃんの帽子、そしてその次は履きものが気になります。その度に家に帰って、お父さんのだるまどんにおねだりします。だるまどんはたくさん集めてきてくれますが、やっぱり「これだ」というものは見つからないのです。そしてだるまちゃんは帽子にはお椀を、履きものにはまな板を、自分で考えて工夫して使います。どれもてんぐちゃんに褒められて嬉しくなります。そして最後は、てんぐちゃんのような、赤くて長くて、とんぼがとまる鼻がほしいと言い始めます。そこでお父さんのだるまどんが探してきたのは、咲く方の花だったのです。【「ちがうよ ちがうよ まるでちがうよ。ぼくの ほしいのは さいている はなでなくて かおにある はなだよ」「ごめん ごめん。これは おおまちがいの とんちんかん」と、お父さんのだるまどんは謝って、それからお餅をついてコロコロ丸めて形のいい鼻を作ってくれました。その鼻に雀が止まるほどだったのです。】「すずめが とまるなんて だるまちゃんの はなは いちばん いい はなだね」と、てんぐちゃんも一緒に喜んでくれました。
ここでは、子ども同士のつながりがまず第一に大切にされています。大好きな友だちと同じようになりたい、お友だちの真似をしたいという気持ち。そして、想像力の力でうちわも帽子も履物も素晴らしい「まねっこ」が出来上がりました。興味深いのはお父さんのだるまどんです。必要最低限しか子ども同士の関係に手出しをすることはありません。しかしだるまちゃんが行き詰った時には、「よーし!引き受けた」という感じで子ども同士の「まねっこ遊び」に本気で付き合うのです。
この絵本からは色々なことを教えられます。まず第一に子ども同士の自由な「まねっこ遊び」、広く言えば「ごっこ遊び」の中で子どもは成長していくということ。自分と友だちの違いを知り、その違いを埋めるための工夫をすること。でも、やっぱり同じにならないし、だからこそ、一人ひとりの違った良さがあること。そして、お互いにそれを認め合うこと。おとなはそれを見守り、子どもだけでは解決できないときには、本気で遊びに付き合うことも必要な時があるということ。そして、間違った時には、悪かったと認め、キチンと子どもに謝ること。
ここでは誰が一番なんていうことは全く関係ありません。お互いが嬉しい気持ちや楽しい気持ちを分かち合っていくことに重点が置かれています。そんな仕方で子どももおとなも一緒に神の子どもとして生きていくことができたらと思います。
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