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2017年11月 5日 (日)

ローマの信徒への手紙 14章7~9節 「自分のために生きる人はなく」

(永眠者記念礼拝)

 7節は新共同訳では「自分のために」とありますが、田川建三訳では「自分自身に対して」となっています。田川は翻訳の根拠を註で以下のように述べています。
【これは口語訳等のように「自分のために」と訳すと誤解を生む。日本語で「自分のために生きる」なんぞと言われると、自分勝手な利己主義者で、他人のことを考慮しない、といったような意味に受け取られてしまう。ここはそうではなく、人間の生はそれ自体として存在しているわけではなく、神と向かいあうものとしてあり、という意味。神との関わりにおいてしか人間は存在しない、というのである。だから次節で「死のうと生きようと、我々は主のものだ」と言っている。】
 わたしたちが生きているものであれ、死んでいるものであれ共々主のものである、というところに一つの慰めがあります。鏡に映った自分だけを見つめて生きることはできません。人は他者と向き合って、他者に対して生きるのであり、その他者の先にも神はいるのです。神と向き合い神に対して生きるとは、必然的に他者に対して生きることです。その他者とは誰か。
 使徒信条」に「死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人うちよりよみがえり、」とあります。「死にて葬られ、陰府にくだり」というのは、イエス・キリストご自身が一度確実に死を迎えたということです。田川が解説するようにパウロの主張は「神との関わりにおいてしか人間は存在しない」のです。つまりは、イエス・キリストの十字架によって非常に確実な、誰もがどのような力によっても断ち切ることのできない絆があるので、故人を思い起こすときに、それはただ単なる思い出とか懐かしさだけではなくて、生の世界と死の世界が結ばれ、育まれていることに希望を抱くことが赦されているのです。もしも故人に対して負の思いがあったとしても、その関係は固定化されず、神のもとで整えられていく、ということです。
 生きている者も死んでいる者も共々主のものなのです。イエス・キリストの力の及ばない領域はないのです。生きている者も死んでいる者も、両方ともイエス・キリストの十字架のゆえに、愛されているかけがえのないいのちなのです。生きている者の国にあるいのちも天に召されている向こう側のいのちもイエス・キリストの神から見れば等しく尊く慈しまれている具体的な存在なのです。このことのゆえに、わたしたちは生きている者の責任として神のもとに召されている者を覚え、今生かされている者も神のもとにいるお一人おひとりもイエス・キリストの愛のゆえに、その関係はより豊かにされ、より確かなものとされ、育まれているのです。

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