イザヤ書 57章19節 「カンボジアの子どもたちを覚えて」
~子どもとおとなの合同礼拝~(キリスト教教育週間)
40年程前、カンボジアの指導者だったポル・ポトは、自分に従わない人を大勢殺したり、迫害しました。20年続いた圧政の影響で、教育の行きわたらない地域がまだたくさんあります。
ポル・ポト政権に批判的だったのは、自分でものを考えることができる人たちです。国のあり方が間違っていると考えることができた人たちです。
勉強で大切なのは自分で問いを立てて考えて答えを見つけていくことです。良い問いを見つけることが大切なのです。身近なことから世界のことなどに対して問いを立てて考えていくこと。この大切さをなくしていくと政治家や金持ちや権力者に都合のよい国が作られてしまいます。本当にこれでいいのだろうかという問いを立てて考えることは、よりよく生きていくために必要なことです。それは次の世代を担う子どもたちに対するおとなたちの期待でもあります。そして、おとなの責任です。そのために教育が保証されなくてはならないのです。今日はとりわけカンボジアの子どもが、よりよく生きるために必要な教育が与えられるよう祈りたいと思います。
今日の聖書「わたしは唇の実りを創造し、与えよう。平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。わたしは彼をいやす、と主は言われる。」は、紀元前537年以後に書かれました。その頃、戦争によって滅ぼされた南王国ユダの王や指導者層や特別な技術を持った職人などがバビロニアに連れていかれていたのですが、ペルシャがバビロニアを滅ぼしたためユダに戻ることができました。そこで戻ったユダの人たちに向けられた言葉として語られています。指導者たちと指導者なしで残されていた人々がもう一度一緒になったのです。教育がない状態というのは、良い指導者のいない状態と似ているかもしれません。
神の言葉を伝える今日の聖書は、希望のないところでも神の平和と癒しが届けられるのだという約束を語っているのです。カンボジアでも日本でも、子どもたちには教育によって平和を実現する神の子どもとして生きていくことができるとの約束に一緒に与ることができるはずだというのです。そのような関係が作られていくことによって、毎日をワクワクドキドキしながら生きていく神さまの子どもだ、だから喜んでいなさいと語りかけられているのです。
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