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2017年10月

2017年10月29日 (日)

イザヤ書 57章19節 「カンボジアの子どもたちを覚えて」

      ~子どもとおとなの合同礼拝~(キリスト教教育週間)
 40年程前、カンボジアの指導者だったポル・ポトは、自分に従わない人を大勢殺したり、迫害しました。20年続いた圧政の影響で、教育の行きわたらない地域がまだたくさんあります。
 ポル・ポト政権に批判的だったのは、自分でものを考えることができる人たちです。国のあり方が間違っていると考えることができた人たちです。
 勉強で大切なのは自分で問いを立てて考えて答えを見つけていくことです。良い問いを見つけることが大切なのです。身近なことから世界のことなどに対して問いを立てて考えていくこと。この大切さをなくしていくと政治家や金持ちや権力者に都合のよい国が作られてしまいます。本当にこれでいいのだろうかという問いを立てて考えることは、よりよく生きていくために必要なことです。それは次の世代を担う子どもたちに対するおとなたちの期待でもあります。そして、おとなの責任です。そのために教育が保証されなくてはならないのです。今日はとりわけカンボジアの子どもが、よりよく生きるために必要な教育が与えられるよう祈りたいと思います。
 今日の聖書「わたしは唇の実りを創造し、与えよう。平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。わたしは彼をいやす、と主は言われる。」は、紀元前537年以後に書かれました。その頃、戦争によって滅ぼされた南王国ユダの王や指導者層や特別な技術を持った職人などがバビロニアに連れていかれていたのですが、ペルシャがバビロニアを滅ぼしたためユダに戻ることができました。そこで戻ったユダの人たちに向けられた言葉として語られています。指導者たちと指導者なしで残されていた人々がもう一度一緒になったのです。教育がない状態というのは、良い指導者のいない状態と似ているかもしれません。
 神の言葉を伝える今日の聖書は、希望のないところでも神の平和と癒しが届けられるのだという約束を語っているのです。カンボジアでも日本でも、子どもたちには教育によって平和を実現する神の子どもとして生きていくことができるとの約束に一緒に与ることができるはずだというのです。そのような関係が作られていくことによって、毎日をワクワクドキドキしながら生きていく神さまの子どもだ、だから喜んでいなさいと語りかけられているのです。

2017年10月22日 (日)

マタイによる福音書 5章9節 「平和を実現する人々」

 「グローバルに考え、ローカルに行動する」という言葉があります。これが平和を実現するための基本的なあり方だと思われます。平和でない状況の原因の一つは枠の問題だと思います。
 2千年前当時のユダヤ教の中でイエスの位置がどのようなものであったかを踏まえておきたいのですが、神を愛し隣人を愛するというテーマのもとでユダヤ教は展開していました。ただ、そこで言われている隣人とは、当時のユダヤ教の理解では非常に閉じられた概念です。同じユダヤ教徒であるということは当然のことですが、律法をキチンと守っている正しいユダヤ教徒が隣人なのです。律法を守らない、むしろ守ることができないような人たちを地の民、罪人として排除することによって、自分たちの枠の中で隣人愛の徹底により、自己完結した平和に留まっていたのです。
 ところが、イエスが隣人を愛せと言う場合には、そのような律法の枠というものを超えていく、むしろその隣人と言われている基準そのものを相対化して、隣人というものを乗り越えていくのです(ルカ10:25-37)。イエスの場合は、その隣人愛というものの枠を取り払って行くことによって、さらには敵を愛せと展開していくのです。この方向の中で平和を考えるならば、平和を実現することは、それらの枠というものを相対化する、ないしは無化することで、相手に対する敵意のようなものを終わらせるという発想にヒントがあるように思われます。
 エマニュエル・カントの『永遠平和のために』(池内紀)という本から引用します。【隣合った人々が平和に暮らしているのは、人間にとってじつは「自然な状態」ではない。戦争状態、つまり敵意がむき出しというのではないが、いつも敵意で脅かされているのが「自然な状態」である。だからこそ平和状態を根づかせなくてはならない。というのは、敵意がないだけで平和は保証されないし、隣国が一方の国に平和の保証を求めたのにその国が拒否したとすると、その隣国は敵とみなしうるからである。】【永遠平和は空虚な理念ではなく、われわれに課せられた使命である。】
 コロサイの信徒への手紙1章20節では次のようにあります。「その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」。これは、イエス・キリストの十字架の出来事によって和解の業がなされたということは、教会という枠をも超えて平和という事態が実現されていく道筋が備えられているのだから、イエス・キリストの在りように倣っていく、そういう小さい一つひとつの積み重ねの中で平和を実現する人々として幸いな道筋が用意されている、という宣言に他なりません。敵と味方との境界線をイエス・キリストは乗り越えてしまっているのだから、わたしたちも、もっと自然な仕方で平和を実現する人として振る舞っていくことができるのです。ここに信頼しながら、ちょっとしたことであったとしても色々なことができるはずです。そういうイエス・キリストの招きに今一度真正面から向かい合うことが求められているのです。それがイエス・キリストにあるところの祝福の一つであるからです。

2017年10月15日 (日)

マタイによる福音書 5章3節 「心の貧しい者は、幸いである」

 「心の貧しい人々は、幸いである」という言葉は全くの直訳だと「幸い 貧しい人々 霊において」になります。「霊において」ということをただ単に精神化・内面化のことだけではなくて、もっと積極的意味合いを読み取ることができるのではないだろうかと、いくつかの翻訳を比べてみました。新共同訳で「心の貧しい人々は、幸いである」と訳されているところをどう訳しているか。本田哲郎は「心底貧しい者たちは、神からの力がある」。佐藤研は「幸いだ、乞食の心を持つ者たち」。佐藤はあえて差別語を使っています。ここで言う「貧しい」は「極貧」に使われる単語だとの判断があるからです。「貧しい」と訳されている単語は「縮こまる」とか「うずくまる」という動詞から転じているとされています。田川建三は「幸い、霊にて貧しい者、天の国はその者たちのものである」と端的に訳しています。
 貧しい人が本当に幸いか?飢えている人が本当に幸いか?泣いている人が本当に幸いか?これらを順説として言うならばとんでもないことです。むしろ当時の社会構造の中で起こってくる非常な格差社会に対する反撃ないしは反逆の、闘いの言葉であったと読むべきです。その一貫した闘いゆえに主イエス・キリストは、十字架という奴隷の死、神からの呪いである死、ローマへの反逆者としての死、に導かれていくわけです。ですから、イエス・キリストの「幸い」という宣言は「貧しい人々」「飢えている人々」「泣いている人々」この人々を今ある状態から別の状態に転じる喜ばしい状態を勝ち取り、また生き抜くための闘いの言葉でした。
 イエスの時代がそうであったように現代教会も「貧しさ」「飢え」「泣いている」に直面していると自覚する必要があります。一人で苦しんでしまうのではなく、誰かとつながっていることが必要です。知恵や勇気を分かち合い、自分たちの今あるいのちをつないでいく、そういうあり方を絶えず模索し、作り出していくところに向かっていく方向付けとの提案ではないでしょうか。
 イエスが「幸い」と宣言したのは、民衆の知恵によりもっとクリエイティブな生き方ができるはずだという促しです。孤独にならないように誰かと絶えずつながっていく生き方を求めていけ、その先に天の国はある、あなたたちはそこに到達できる、という祈りであり宣言です。だから、あなたたちは幸いなのだ、と。それが「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」との言葉の示す地平なのです。この意味で「心の」「霊において」の意味を読み込んでいくならば、貧しい者たちが決して孤独にならず、共にいのちを喜び合って助け合って、知恵を出し合ってつながっていく道筋をまずイメージすること、そして創り上げていくところにこそ幸いはある、「天の国はその人たちのものである」。このような関係性につながっていく筋道を、今、わたしたちもイエス・キリストから示されているのです。

2017年10月 8日 (日)

ヨハネによる福音書 8章1~11節 「ヨハネの義」

井谷 淳神学生(農村伝道神学校)
本日の聖書箇所に登場する姦淫の罪に問われる女性とマグダラのマリアは同一人物であるという説が現代聖書学の定説になりつつありますが、この二人の女性に共通するのは、共に置かれてきた環境が過酷なものであり、体を売ることにより生きる糧を得るしか術のない生活状況に直面していたことであります。本日の聖書箇所においてもこの女性(マリア?)は、イエスとの邂逅により新たな自分への旅立ちの糸口を掴むことになります。それは相互理解と連帯に自尊感情にまつわる意識をイエスにより強められたという事になります。女性はイエスの前に連れて来られた時、何故にわざわざイエスの前で裁判を行うのかその真意を計りかねていましたが、イエスは律法学者達の意図が、この女性と共に自分をも裁いていこうとする彼等の策略である事を見抜いていました。ユダヤ律法の規定から外れたこの女性を裁きたければ自分達自ら裁いてしまえばよかったのです。彼等、律法主義者達の狙いは、イエスが女性を庇うという予測の基にイエスを共犯者的な立場の人間として裁いていくものでありました。しかしイエスの論理は彼等の予想をはるかに超えていました。「罪を犯したことのない者がまずこの女に石を投げなさい」この言葉は罪の本質を理解する者でないと説得力を持ちません。イエスの力強い言葉は律法主義者達の罪責感を呼び起こすのに十分なものでありました。ここで考えて頂きたいのがイエス自身もまた石を投げなかったという事実であります。それはイエス自身もまた自分自身に対する何らかの罪意識を持っていたことを示唆します。この箇所で描かれているイエスの立つ場所は単なる仲裁者、或いはオブザーバー的な存在以上の者であります。つまりイエス、女性、律法主義者達全員罪人であるのです。イエスの生い立ちを考えていましょう。イエスの生家の石切り大工業は当時の社会的ヒエラルキーの中で決して高位にあるものではなかったにせよ、一応独立した職人であった父ヨセフの元に、より苦境に置かれた人々が幾ばくかの仕事を求めて訪れます。それは当時のユダヤ社会において異邦人と呼ばれる人達~不可触民と呼ばれる社会のセーフティネットに乗ることすら困難な方たちであったのでしょう。そのような方達と共に汗を流し働いている中で次第にイエスはその境遇に同情的になり、またそのような方達を作り出してしまっている社会構造の矛盾に対する義憤が芽生えていきます。あるいはその怒りは自分自身に向けられたものであったかもしれません。階層的に上位ではないにせよ何処かそのような方々を社会の片隅に追いやっている構造側の人間の一人であるという負い目、或いは申し訳の無さが前青年期のイエスの心に芽生えたのではないでしょうか。この追い目の感情も自分自身への罪責感としてイエスが己に課するものであり、また同時にイエスが果たしてゆくべき「義の世界」であったのでしょう。故に自身が共に生きてきた苦境に置かれた方々の尊厳の回復の為に奔走したのがイエスの宣教の全容であると私は考えます。この物語に登場する女性の姿もまたイエス自身の罪責感と義の意識を呼び起こすものでした。最後の言葉が私にはこのように聞こえます。「行きなさい。私もあなたを罪に問わない、何故なら私もまた罪人であるのだから」。

2017年10月 1日 (日)

コロサイの信徒への手紙 4章2~18節 「祈りによって」

 コロサイの信徒への手紙はパウロの名を借りた別の人物の手によるものですが、「目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。同時にわたしたちのためにも祈ってください。」(4:2-3)との言葉に集中したいと思います。
 祈りとは、自分の内側から沸き起こってくる事柄を神に対して訴えかけるということが第一ではありません。まず受け身なのです。それはサムエル記上3:10の「どうぞお話しください。僕(しもべ)は聞いております。」というサムエルの言葉から導かれます。幼いサムエルは丁稚奉公のようにしてエリという祭司のところにいます。ある時サムエルが寝ているとサムエルを呼ぶ声が聞こえてきます。師匠のエリに呼ばれたと思って行くと呼んでいないと言われ戻ります。同様のことが何回か繰り返されてエリは気が付きます、神が呼んでいるのだと。そこでサムエルに、その言葉を聞いたなら「どうぞお話ください。僕は聞いております」と答えるように促します。そしてサムエルは神からの言葉を聞く、と召命物語は展開していきます。祈りとは神の語りかけに対して答えていくところから初めて始まっていくのです。
 今日の箇書には、色々な人の名前が挙げられています。手紙の著者だけでなく、その人たちに向かっても、招きの言葉がイエス・キリストによって語られているので、応答は「わたしたち」なのです。この祈りによって教会の絆が確かなものにされ、教会形成が行われるようにとの促しが今日の言葉です。
 パウロが牢につながれているという設定の手紙です。自由を奪われた著者の境遇が、その背後にはあろうかと思われます。人を自由でなくさせるような息苦しい状況のただ中にあっても祈りによって、それらの重たいものを跳ね返していく力があるのだと。
 だから「どうぞお話ください。僕は聞いております」という祈りの姿勢を保持し、わたしたちが主イエスの御名によって執り成しにおいて祈っていくのであれば、自分たちの願い通りではないかもしれないけれども、お互いがお互いのいのちを喜び合っていけるような方向に、もうすでに共にあるのだということを信じることができるようにされていくのです。そのような祈りによって教会は育てられていくのだと確認しておきましょう。わたしたちの教会も祈り合い、そしてまた祈ってくださいと言い合えるような関係の中で、より喜ばしい場として整えられていくのだと信じることができる一つの幸いがここにはあるのです。

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