マタイによる福音書 5章9節 「平和を実現する人々」
「グローバルに考え、ローカルに行動する」という言葉があります。これが平和を実現するための基本的なあり方だと思われます。平和でない状況の原因の一つは枠の問題だと思います。
2千年前当時のユダヤ教の中でイエスの位置がどのようなものであったかを踏まえておきたいのですが、神を愛し隣人を愛するというテーマのもとでユダヤ教は展開していました。ただ、そこで言われている隣人とは、当時のユダヤ教の理解では非常に閉じられた概念です。同じユダヤ教徒であるということは当然のことですが、律法をキチンと守っている正しいユダヤ教徒が隣人なのです。律法を守らない、むしろ守ることができないような人たちを地の民、罪人として排除することによって、自分たちの枠の中で隣人愛の徹底により、自己完結した平和に留まっていたのです。
ところが、イエスが隣人を愛せと言う場合には、そのような律法の枠というものを超えていく、むしろその隣人と言われている基準そのものを相対化して、隣人というものを乗り越えていくのです(ルカ10:25-37)。イエスの場合は、その隣人愛というものの枠を取り払って行くことによって、さらには敵を愛せと展開していくのです。この方向の中で平和を考えるならば、平和を実現することは、それらの枠というものを相対化する、ないしは無化することで、相手に対する敵意のようなものを終わらせるという発想にヒントがあるように思われます。
エマニュエル・カントの『永遠平和のために』(池内紀)という本から引用します。【隣合った人々が平和に暮らしているのは、人間にとってじつは「自然な状態」ではない。戦争状態、つまり敵意がむき出しというのではないが、いつも敵意で脅かされているのが「自然な状態」である。だからこそ平和状態を根づかせなくてはならない。というのは、敵意がないだけで平和は保証されないし、隣国が一方の国に平和の保証を求めたのにその国が拒否したとすると、その隣国は敵とみなしうるからである。】【永遠平和は空虚な理念ではなく、われわれに課せられた使命である。】
コロサイの信徒への手紙1章20節では次のようにあります。「その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」。これは、イエス・キリストの十字架の出来事によって和解の業がなされたということは、教会という枠をも超えて平和という事態が実現されていく道筋が備えられているのだから、イエス・キリストの在りように倣っていく、そういう小さい一つひとつの積み重ねの中で平和を実現する人々として幸いな道筋が用意されている、という宣言に他なりません。敵と味方との境界線をイエス・キリストは乗り越えてしまっているのだから、わたしたちも、もっと自然な仕方で平和を実現する人として振る舞っていくことができるのです。ここに信頼しながら、ちょっとしたことであったとしても色々なことができるはずです。そういうイエス・キリストの招きに今一度真正面から向かい合うことが求められているのです。それがイエス・キリストにあるところの祝福の一つであるからです。
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