マタイによる福音書 5章3節 「心の貧しい者は、幸いである」
「心の貧しい人々は、幸いである」という言葉は全くの直訳だと「幸い 貧しい人々 霊において」になります。「霊において」ということをただ単に精神化・内面化のことだけではなくて、もっと積極的意味合いを読み取ることができるのではないだろうかと、いくつかの翻訳を比べてみました。新共同訳で「心の貧しい人々は、幸いである」と訳されているところをどう訳しているか。本田哲郎は「心底貧しい者たちは、神からの力がある」。佐藤研は「幸いだ、乞食の心を持つ者たち」。佐藤はあえて差別語を使っています。ここで言う「貧しい」は「極貧」に使われる単語だとの判断があるからです。「貧しい」と訳されている単語は「縮こまる」とか「うずくまる」という動詞から転じているとされています。田川建三は「幸い、霊にて貧しい者、天の国はその者たちのものである」と端的に訳しています。
貧しい人が本当に幸いか?飢えている人が本当に幸いか?泣いている人が本当に幸いか?これらを順説として言うならばとんでもないことです。むしろ当時の社会構造の中で起こってくる非常な格差社会に対する反撃ないしは反逆の、闘いの言葉であったと読むべきです。その一貫した闘いゆえに主イエス・キリストは、十字架という奴隷の死、神からの呪いである死、ローマへの反逆者としての死、に導かれていくわけです。ですから、イエス・キリストの「幸い」という宣言は「貧しい人々」「飢えている人々」「泣いている人々」この人々を今ある状態から別の状態に転じる喜ばしい状態を勝ち取り、また生き抜くための闘いの言葉でした。
イエスの時代がそうであったように現代教会も「貧しさ」「飢え」「泣いている」に直面していると自覚する必要があります。一人で苦しんでしまうのではなく、誰かとつながっていることが必要です。知恵や勇気を分かち合い、自分たちの今あるいのちをつないでいく、そういうあり方を絶えず模索し、作り出していくところに向かっていく方向付けとの提案ではないでしょうか。
イエスが「幸い」と宣言したのは、民衆の知恵によりもっとクリエイティブな生き方ができるはずだという促しです。孤独にならないように誰かと絶えずつながっていく生き方を求めていけ、その先に天の国はある、あなたたちはそこに到達できる、という祈りであり宣言です。だから、あなたたちは幸いなのだ、と。それが「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」との言葉の示す地平なのです。この意味で「心の」「霊において」の意味を読み込んでいくならば、貧しい者たちが決して孤独にならず、共にいのちを喜び合って助け合って、知恵を出し合ってつながっていく道筋をまずイメージすること、そして創り上げていくところにこそ幸いはある、「天の国はその人たちのものである」。このような関係性につながっていく筋道を、今、わたしたちもイエス・キリストから示されているのです。
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