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2017年10月 8日 (日)

ヨハネによる福音書 8章1~11節 「ヨハネの義」

井谷 淳神学生(農村伝道神学校)
本日の聖書箇所に登場する姦淫の罪に問われる女性とマグダラのマリアは同一人物であるという説が現代聖書学の定説になりつつありますが、この二人の女性に共通するのは、共に置かれてきた環境が過酷なものであり、体を売ることにより生きる糧を得るしか術のない生活状況に直面していたことであります。本日の聖書箇所においてもこの女性(マリア?)は、イエスとの邂逅により新たな自分への旅立ちの糸口を掴むことになります。それは相互理解と連帯に自尊感情にまつわる意識をイエスにより強められたという事になります。女性はイエスの前に連れて来られた時、何故にわざわざイエスの前で裁判を行うのかその真意を計りかねていましたが、イエスは律法学者達の意図が、この女性と共に自分をも裁いていこうとする彼等の策略である事を見抜いていました。ユダヤ律法の規定から外れたこの女性を裁きたければ自分達自ら裁いてしまえばよかったのです。彼等、律法主義者達の狙いは、イエスが女性を庇うという予測の基にイエスを共犯者的な立場の人間として裁いていくものでありました。しかしイエスの論理は彼等の予想をはるかに超えていました。「罪を犯したことのない者がまずこの女に石を投げなさい」この言葉は罪の本質を理解する者でないと説得力を持ちません。イエスの力強い言葉は律法主義者達の罪責感を呼び起こすのに十分なものでありました。ここで考えて頂きたいのがイエス自身もまた石を投げなかったという事実であります。それはイエス自身もまた自分自身に対する何らかの罪意識を持っていたことを示唆します。この箇所で描かれているイエスの立つ場所は単なる仲裁者、或いはオブザーバー的な存在以上の者であります。つまりイエス、女性、律法主義者達全員罪人であるのです。イエスの生い立ちを考えていましょう。イエスの生家の石切り大工業は当時の社会的ヒエラルキーの中で決して高位にあるものではなかったにせよ、一応独立した職人であった父ヨセフの元に、より苦境に置かれた人々が幾ばくかの仕事を求めて訪れます。それは当時のユダヤ社会において異邦人と呼ばれる人達~不可触民と呼ばれる社会のセーフティネットに乗ることすら困難な方たちであったのでしょう。そのような方達と共に汗を流し働いている中で次第にイエスはその境遇に同情的になり、またそのような方達を作り出してしまっている社会構造の矛盾に対する義憤が芽生えていきます。あるいはその怒りは自分自身に向けられたものであったかもしれません。階層的に上位ではないにせよ何処かそのような方々を社会の片隅に追いやっている構造側の人間の一人であるという負い目、或いは申し訳の無さが前青年期のイエスの心に芽生えたのではないでしょうか。この追い目の感情も自分自身への罪責感としてイエスが己に課するものであり、また同時にイエスが果たしてゆくべき「義の世界」であったのでしょう。故に自身が共に生きてきた苦境に置かれた方々の尊厳の回復の為に奔走したのがイエスの宣教の全容であると私は考えます。この物語に登場する女性の姿もまたイエス自身の罪責感と義の意識を呼び起こすものでした。最後の言葉が私にはこのように聞こえます。「行きなさい。私もあなたを罪に問わない、何故なら私もまた罪人であるのだから」。

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