コロサイの信徒への手紙 3章12節~4章1節 「神をほめたたえ」
キリスト者が、この世における証しの生涯の中で優先すべきは、第一に神をほめたたえることです。イエス・キリストの神のみが唯一であり、まことであることを認め、その方に倣って信じ従っていくことです。しかし、イエス・キリストの神をほめたたえるということは、しばしばこの世の市民倫理とか強いられる「期待される人間像」から外れることがあります。
主イエス・キリストがいのちを認めてくださっている赦しの中で証ししていくことは、この世の中で迎合していくということではありません。
「わたしはイエス・キリストによってもう一度生き直すという自由が与えられた」喜びに生きることです。何らかのトラブルを含む仕方であっても、です。この生き方とは自分の力によってではなくて、「神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されている」ことによって導かれた主体的なあり方です。そして「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」というのは、その人の存在を前提としながら然りを然り、否を否とすることです。
しばしば「批判」は「非難」や「否定」と混同されますが、この違いについてはしっかり捉えていた方が良いと思います。わたしは「聖書を批判的に読む」ことを肯定していますが、これが「聖書を非難する」と受け取られることがあります。違うのです。聖書を信頼しているからこそ批判はあるのです。他者に向かっての批判も、その人のいのちを認めておいてであれば大丈夫なはずです。そうして、お互いの関係が育てられていくのです。この可能性が神によって守られていることを、感謝とほめたたえによって表わしていこうという提案が今日のコロサイの信徒への手紙の主張だと思われます。
なかなか難しいです。親しければ親しいほどマイナスの点が苦痛を伴って見えてくるということもあります。親しさゆえに赦せない関係になることもあります。対人関係の中では、いつでも起こりうること。教会という輪においても同様です。他者に対しても社会に対してもあいまいな仕方での赦しは相応しくありません。
神をほめたたえ感謝する方向とは、「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」を枠の中で行っていくことによって教会という輪が成長していく可能性に開かれているということです。そのようなあり方というものが、目標としての神をほめたたえというガイドラインです。コロサイの信徒への手紙は基本的には教会論しか書いてありませんが、この世における市民倫理を超えていくキリスト教倫理を提示しています。神をほめたたえることによって、キリスト者のあり方の今日的意味合いを自己吟味しながら考え直していくことによって、言葉と振る舞いを整えつつ、共に歩んでいきましょう。
最近のコメント