« 2017年8月 | トップページ | 2017年10月 »

2017年9月

2017年9月24日 (日)

コロサイの信徒への手紙 3章12節~4章1節 「神をほめたたえ」

 キリスト者が、この世における証しの生涯の中で優先すべきは、第一に神をほめたたえることです。イエス・キリストの神のみが唯一であり、まことであることを認め、その方に倣って信じ従っていくことです。しかし、イエス・キリストの神をほめたたえるということは、しばしばこの世の市民倫理とか強いられる「期待される人間像」から外れることがあります。
 主イエス・キリストがいのちを認めてくださっている赦しの中で証ししていくことは、この世の中で迎合していくということではありません。
 「わたしはイエス・キリストによってもう一度生き直すという自由が与えられた」喜びに生きることです。何らかのトラブルを含む仕方であっても、です。この生き方とは自分の力によってではなくて、「神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されている」ことによって導かれた主体的なあり方です。そして「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」というのは、その人の存在を前提としながら然りを然り、否を否とすることです。
 しばしば「批判」は「非難」や「否定」と混同されますが、この違いについてはしっかり捉えていた方が良いと思います。わたしは「聖書を批判的に読む」ことを肯定していますが、これが「聖書を非難する」と受け取られることがあります。違うのです。聖書を信頼しているからこそ批判はあるのです。他者に向かっての批判も、その人のいのちを認めておいてであれば大丈夫なはずです。そうして、お互いの関係が育てられていくのです。この可能性が神によって守られていることを、感謝とほめたたえによって表わしていこうという提案が今日のコロサイの信徒への手紙の主張だと思われます。
 なかなか難しいです。親しければ親しいほどマイナスの点が苦痛を伴って見えてくるということもあります。親しさゆえに赦せない関係になることもあります。対人関係の中では、いつでも起こりうること。教会という輪においても同様です。他者に対しても社会に対してもあいまいな仕方での赦しは相応しくありません。
 神をほめたたえ感謝する方向とは、「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」を枠の中で行っていくことによって教会という輪が成長していく可能性に開かれているということです。そのようなあり方というものが、目標としての神をほめたたえというガイドラインです。コロサイの信徒への手紙は基本的には教会論しか書いてありませんが、この世における市民倫理を超えていくキリスト教倫理を提示しています。神をほめたたえることによって、キリスト者のあり方の今日的意味合いを自己吟味しながら考え直していくことによって、言葉と振る舞いを整えつつ、共に歩んでいきましょう。

2017年9月17日 (日)

コリントの信徒への手紙二 4章16~18節 「日ごとの新しさに」

 創世記には「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創2:7)とあります。いのちを神が貸し与えられたことによって、人は生きる者となったのです。人間は自分でいのちを創りだすことができないのです。わたしたちが今生きているのは、わたしたちが自分たちの力で生きているのではなく、絶えず受動的なのです。
 パウロは「光あれ」(創1:3)との言葉を受け入れながら「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。」(Ⅱコリ4:6)と告白しています。人は神によって創られた土の器にしか過ぎない。脆いもの、儚いものだけれど、そこに、「このような宝」が納められ、与えられているのです。その宝とは神を認識する能力のことです。神を受け止める受け皿としての光である宝が一人ひとりに与えられているからです。そのことによって初めて土の器であるわたしたちが生きる者としてイエス・キリストのいのちに与っていくことができるということです。わたしたちのいのちは元々自分たちの持ち物なのではなくて、いのちの息吹を受けることによって神ご自身から命が貸し与えられている。この世での生涯を終えたら神にお返しするものだ、そのようないのちをわたしたちは、それぞれ年代を超えて共有していると言えます。
 幼子たちも歳を重ねていくことでしょうし、今歳を重ね、老いという現実の中であちこちが弱っている、そのような土の器であるわたしたち一人ひとりを神の側から知ろうとするならば、共々神の守りの内、神の恵みの内にあることを認めていくことができます。どのような艱難、苦難、苦労、試みがあったとしても、その土の器である自らを受け止めていくところに、わたしたちの基本的な信仰があるのだと思えるならば、歳を重ねていくところに恵みがあるのだということを受け止めることができるのです。
 主イエス・キリストのいのちとしての宝が盛られていのだから共々相手を、そして自分を土の器と認め、同時にここにおいてイエス・キリストの宝をお互いに見出し合っていくのです。この交わりにおいて教会は、主イエス・キリストにある日ごとの新しさに与って、お互いを喜びあっていくことができるのではないでしょうか。
 人は、やがては神のもとに帰っていく定めにあります。しかし、今この世に生かされてあるということは、ここでなすべき務めと責任があって、そこであえて喜んでいく道があるということです。今あるいのちは全面的に、主イエス・キリストの十字架において肯定されてしまっているのです。わたしたちは、この高齢者の日の礼拝において、幼子から高齢者に至るまで、お互いのいのちを祝福し合って、今を生かされてあることを喜んでいきましょう。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(4:18)と、このように永遠であるところのイエス・キリストの守りの内にあって、今という時を喜んで受け止めていく、そのような勇気と希望と平安が、もうここにはあるのです。

2017年9月10日 (日)

コロサイの信徒への手紙 2章20節~3章11節 「上にあるものを求めなさい」

 イエス・キリストの十字架によってなされた和解の業、贖いという事柄、そしてキリストの復活によって与えられているところの、今のキリスト者の生き方は、上にあるものを求めていくところにあるのだと今日の聖書は語っています。逆に、「地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい」として、これらは「貪欲は偶像礼拝にほかならない」に掛かっていると読むことができます。そして8節では「今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。」(3:8)とも語られています。
 人の価値の分け隔てをせず、「ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者」というように、人のいのちを公平に見ていくことが尊い生き方であり、それが「上にあるものを求めなさい」ということです。上にあるものとは言うまでもなく、神の国であり、神の国とはイエス・キリストです(古代において「天」「天国」は空の上にあると思われていたので)。つまりはイエス・キリストご自身のあり方を求めていきなさいということです。条件なしに一切のいのちが良きものとして神から祝福されて、今あるあなたのいのちは何ものにも替えがたい尊さがあると言うイエス・キリストの思いにそぐわないものに対して抗っていくあり方が、「上にあるものを求めなさい」という言葉の示す方向なのです。イエス・キリストがどうであったかを心に留めながら歩み、絶えず自己吟味しながら、どのように生きていくのかを模索していくことだろうと思います。
 イエス・キリストを求めていく少数者の生き方としてと、どのようなイメージを描いたらいいのでしょうか。哲学者の鵜飼哲さんの言葉「波風を立てていこうじゃないか」にヒントがあるように思われます。権威あるとされているゆえにタブー視されているもの(こと)について茶々を入れたり、おかしいんじゃないのと言ってみる、ということをほんの少しでも行ってはどうか、と。
 「上にあるものを求めなさい」という言葉によって示される生き方とは、イエス・キリストのあり方に倣うことであり、それは「慣習」や「常識」に固まっている日常に小さな波風を立てていく、その中で少しずつ何かしらの関係が動いていく、変わっていく、そういう可能性に賭けていくことではないでしょうか。何かが変わっていくに違いないと信じることができるということではないでしょうか。

2017年9月 3日 (日)

コロサイの信徒への手紙 2章1~19節 「自由」

 キリスト者として、わたしたちは「自由」であると言えるでしょうか。どこか「べきである」という観念に縛られて、今のままでは不十分であるからもっとこんなことをしなければいけないと考えてはいないでしょうか。
 コロサイの信徒への手紙で「人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい」(2:8)とあるのは、贖罪信仰では不十分だという考えに教会がはまり込んで、おそらく神秘主義的な密儀宗教的なものを教会の中に持ち込んできている勢力があったことを示しているようです。
 儀式がエスカレートしていく傾向を宗教は持っています。本筋を深めていくよりも、枝葉のところがエスカレーションを起こしていくということがあるわけです。コロサイの信徒への手紙の場合は、イエス・キリストの血による贖いがキリスト教徒の判断基準の中心の一つです。ここにおける和解の業にのみ立っていくことが重要なのです。枝葉のところに信仰の内容が分散し、自分たちがキリスト教徒であるためには○○をしなければいけない、ということが増えていくという状況に教会が陥っていたのでしょう。そういうところで、立つべきところである軸足というのはイエス・キリストの十字架であるとしてこの世に対して対峙していく、そのようなあり方を求めていけということを説いているのです。
 そのような、キリストの十字架上の出来事によって一人ひとりのいのちが祝福されてしまっている事実以外のものを拠り所にしようとする「言い伝えにすぎない哲学、むなしいだまし事」が現代日本の社会においても力を奮っているように思われます。イエス・キリストの十字架の出来事によって、今わたしたちのいのちが規定されているということでは不十分で、むしろこの世にある、「無言の常識」とか「無言の知」と言ってきたのですが、誰もが当たり前だと思っていることは、わざわざ言葉にして言わなくてもそれが常識として根付いてしまって、知らず知らずのうちにわたしたちの血となり肉となっているような観念とか概念、思想というものが確実にあるからです。イエス・キリストの十字架は、それら一切を相対化する力です。それらを注意深く取り除いていく自由に生きることがキリスト者になっていくことなのではないでしょうか。
 それは、自分の言葉で語るという主体性を取り戻していくあり方をイエスの贖いの業によって、その道筋において与えられていると信じることから始まります。そのような意味での自由な「わたし」が周りで起こっている事柄に関して共感していく、響き合っていくという能力を身につけていくことが求められているのではないでしょうか。

« 2017年8月 | トップページ | 2017年10月 »

無料ブログはココログ