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2017年8月

2017年8月20日 (日)

コリントの信徒への手紙一 10章13節 「会堂建築の試練と感謝」 

加藤忠良

 会堂を建築するということは教会にとって大きな試練だと思います。意見の対立から教会が分裂したり、教会員が去って行くというケースがあるようです。幸いにして私たちにはそのようなことは起こりませんでした。感謝!
 個人的な話になりますが、私は自分の性格や能力を考え、出来れば建築委員長を引き受けたくなかったのです。そのような時に、会堂を新築したばかりの上星川教会の牧野信次牧師と話す機会(2013年2月)があり、牧師は「いろんな苦労はあるが、最後まで苦しみを負う覚悟のある担い手がいるかどうかにかかっている。」と話されました。この言葉が逡巡している私の背中を強く押しました。
 さて、今回の会堂建築は完成時期を2015年のクリスマスと決め、大まかな資金計画として、総事業費1億円、調達資金として内外献金5千万円、土地売却代5千万円、借金なしと考えました。当教会の財政状況を考えると、借金の負担は大変だと考えたからです。
 献金はこれまでの「準備金」約1300万円と新規建築献金約3千万円、それと外部献金で何とかなりそう。問題は土地の売却です。とりあえず売却は、建築会社のキクシマさんが有力な個人客の情報を持っているというので、その線で進めることにしました。ある個人のお客さんが付き、具体的な売買条件を詰めていく段階で私の頭がパニック状態になり、不眠症になってしまいました。設計や工事費のこともあり、肉体的、精神的な限界に来たようです。そこで私は原牧師と副委員長の小山崇さんに相談(2014年6月)、当面、土地売却を先送りし、代わりに教会債(借金)を募集することで了承を得ました。教会員の協力により4940万円の教会債が集まり、工事代等の支払いの目途が立ちました。
 建築工事は2015年4月に着工し、11月29日に完成、12月20日の新会堂での最初の礼拝をクリスマス礼拝として祝いました。
 一方、土地売却は仲介を依頼した京急不動産から12月初めに4800万円の一報が入りましたが断りました。焦ることはない、もう少し様子を見よう。暫くして、5100万円の連絡があり、私は「これだ!」と瞬間的に決断し、臨時役員会の承認を得て売買契約を結びました(12月25日クリスマス!)。そして気が付いたことは、手数料を差し引いた手取り金が、何と4945万円なのです。教会債は4940万円。この数字はいったい何を意味するのか。私の信仰が問われました。土地の売却にあれほど苦しんだのは本当に神さまを信頼していたのか、自分の力のみに頼っていたのではなかったのか。不信仰な私に対して神さまは、その恵みを数字ではっきりと示して下さったのだと思いました。
 私たちはこのような神さまの恵みに感謝すると共に、故角田三郎牧師や先輩方が苦労して残して下さった土地を、会堂建築のためとはいえ売却したことのお許しを乞いつつ感謝の気持ちを決して忘れてはならないと思います。

2017年8月13日 (日)

コロサイの信徒への手紙 1章9~20節 「ただ御子によって」

 わたしたちは教会をとおしてイエス・キリストに従う道が備えられています。キリストへの信仰は前進していくものなのです。この手紙の著者によれば、喜びをもって耐え忍ぶ道は闇から光へと至るのだとされます。「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」(1:13-14)とあるとおりです。
 この事実を支えているのは15-20節の「讃歌」です。ヨハネ福音書の冒頭の「ロゴス讃歌」とも共鳴するような先在のキリストによる想像が語られています。さらに救済へと至る「第一の者」であることも描かれています。
 創造から救済に至る道筋と根拠は20節の和解にこそ重点があることに注意しておきましょう。すなわち、「その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」と。
 イエス・キリストの出来事の中心であり、キリスト教信仰の重点は「贖罪」にあります。14節の「わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」とあるとおりです。
 しかし、コロサイの手紙の著者はパウロ後の時代にあって、彼の生々しく激しい言葉によって伝わりにくくなったキリスト観が、普遍的な、つまり、より多くの人々に伝わることこそを優先しているのだとも言えます。
 イエス・キリストの十字架上の死において流された血、これこそがすべての民の罪を赦すものであること。誰一人として逃れることのできないすべての人の罪が買い取られてしまっていること、この言葉をキリストの十字架の死における血に適用しているのでしょうか。それは、神がわたしたちを買い戻すことによって、旧約聖書の律法などあらゆる権力・勢力・権威から人を自由にしてしまったのだという宣言でもあります。
 わたしたちの生きる現代社会において、人の生き方から自由を奪い取る仕組みや権力がわたしたちの前に立ちはだかっていることは否定できません。しかし、だからこそ14節の「わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」との言葉によって導かれる自由に、固く立ち続ける勇気が与えられていること、これを忘れてはいけないのです。

2017年8月 6日 (日)

エフェソの信徒への手紙 2章14~22節 「隔ての壁を取り壊し」

 エフェソの手紙で問題になっているのは、民族間の問題です。とりわけ、ユダヤ人とユダヤ人以外の異邦人と呼ばれる人たちとの間に平和でない状況があったとされます。そのような不幸な状況に対して、イエス・キリストの出来事によって不幸な民族間の関係はすでに破棄されているのだとして「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し」と語りかけるのです。「敵意」という「憎しみ」を乗り越える根拠がイエス・キリストであると主張するのです。これは、いわば教会の内側に向かっての言葉です。しかし、イエス・キリストの事態は教会の外側に向かっても無効になることはありません。イエス・キリストの出来事は、この世に対する働きかけであるからです。イエス・キリストの和解の出来事は決して教会という枠に閉じられることはないのです。
 現代日本においては、外国人排斥運動を担っている団体があり、急成長を遂げています。いわゆる「ネトウヨ」が街に繰り出していく状況は続いています。これは今に始まったことではなく、日本の近代が朝鮮半島などに対して行ってきた差別的なあり方の延長線上にあることは否定できません。 
 「敵意」「憎しみ」を煽ることによって、自らが「日本人」であるというアイデンティティを確立したい人々の偏狭さには驚くばかりですが、彼らがあれほど自信をもって差別的・排外的言動を行うことができるのは、自分たちの運動がより多くの人々によって支持されているという確信があるからなのでしょう。ということは、彼らの言動をわたしたちが支えてしまっている事実がないか検証する必要があるようです。
 今、世界中で難民・移民の受け入れが大きな課題となっています。そして日本社会においても、すでに様々な文化を背景とする人びとが地域に暮らしいています。昨年成立した「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律(ヘイトスピーチ解消法)を手がかりとして、地方自治体に対して人種差別撤廃基本条例の制定、多民族・多文化共生のための働きかけが必要です。1980年代の指紋押捺拒否に始まりまった「外国人住民基本法の制定を求める全国キリスト教連絡協議会」(外キ協)の活動も試みの一つです。国籍、民族、宗教、文化、言語など異なる背景をもった人たちが、その違いを認め合うことで一緒に街でいのちが大切であり尊いということが保証される社会、それは「外登法問題と取り組む全国キリスト教連絡協議会」(外キ協)のパンフレットの次の言葉が象徴的に表わしています「外国人が暮らしやすい社会は日本人にとっても住みやすい」。多くの難民を拒絶する日本という国、すでに隣人である他民族を冷たくあしらうこの日本という国、ここに暮らす者として、わたしたちは自覚的にならねばなりません。そして、「平和を実現する人」として歩んで行くことへと招かれていることを確認しましょう。

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