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2017年7月

2017年7月30日 (日)

コロサイの信徒への手紙 1章1~8節 「実を結んで成長し」

 コロサイの信徒への手紙はパウロの名を借りた著者が80年ごろ、コロサイ(ラオディキアとヒエラポリスでも回覧されることが前提されている)に宛てて書かれた体裁をもっています。60年か61年の大地震で都市機能が働くほどには復興されてはいなかったと思われます。田川建三は「すでに存在しない町だから、偽作文書の架空の送り先として選びやすかった、ということだろう」と指摘しています。前半が理論編、後半が実践編である、という構成はローマの信徒への手紙と似ています。
 この手紙はパウロ後の教会論と信仰論の発展の途上が表わされています。著者の問題意識は「人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。」(2:8)にあるように、いわゆる「異端」(彼らもキリスト教徒であるのですが)に対する論駁を行っているのです。
 1:1-8は祝祷と挨拶にあたる部分です。ガラテアの信徒への手紙の冒頭のように「人々からでもなく、人を通してでもなく」と否定形・喧嘩腰で手紙を始めることはしていません。まず相手の教会の人たちと自分たちが同じ土俵に既に立たされていることが前提であることを強調しているのです。ただ、相手の主張を認めるような前振りから批判へとつなげていく慇懃無礼な方法論ではなく、違いを直截に批判するときに、相手の存在を全面的に認めるところから始めるという著者の「作法」の様なものがあるのです。
 この態度が次の言葉にあります。すなわち、「あなたがたがキリスト・イエスにおいて持っている信仰と、すべての聖なる者たちに対して抱いている愛について、聞いたからです。それは、あなたがたのために天に蓄えられている希望に基づくものであり、あなたがたは既にこの希望を、福音という真理の言葉を通して聞きました。あなたがたにまで伝えられたこの福音は、世界中至るところでそうであるように、あなたがたのところでも、神の恵みを聞いて真に悟った日から、実を結んで成長しています。」(1:4-6)。と。キリストからの信仰と、それゆえの愛によって貫かれる「実を結んで成長してい」る現実に共に与っていることへの感謝からこそ、批判が相手の心に届く言葉として働くことを知っているからです。
 この姿勢は現代教会も見習う必要があるはずです。日本基督教団について考えると、各個教会・教区・教団には様々な神学的・信仰的な違いは確実に存在します。その違いとどのように向かい合っていくのが相応しいのかを今日のテキストは告げています。相手も同じキリストにあることを感謝しつつ、正面から非難し合う自由に招かれていると。その前提として、極端な仕方で相手を切り捨てて終わりとしないこと。対話によって乗り越えることができるのだというキリストの信仰においてお互いが導かれていることを認めることから始めていけば、「否!」という非難の言葉も、貫かれる愛によって「実を結んで成長し」つつ、この歴史において教会として証しの道を歩むことができるのだと、わたしたちは知らされているのです。

2017年7月23日 (日)

ヤコブの手紙 5章19~20節 「真理に立ち返る」

 今日の聖書の意味を確定するために、99と1の羊の話を取り上げます。この話はマタイとルカにありますが、マタイでは、99を山に残して、出ていった1を羊飼いが探しに行きます。ユダヤ教の伝統で「山」というのは神が語りかける場所であるとされ、そこから転じて聖なる場であると考えられていました。この系統にあるマタイは、山は教会と考えているのです。ですからマタイの場合、99は山という安全な教会に確保しておいて、そこから迷い出た1を探しに行くという姿勢です。これが一般的な99と1のたとえの解釈となります。そういう意味で教会から離れていった人、躓いていった人を何とか迎え入れたいという意味になります。
 ルカの場合は、99を荒れ野に置いて1を探しに行きます。荒れ野に99を捨てて1を選ぶという判断なのです。そこに悔い改めの動機が入ってくるので、結論としてはマタイと同じように悔い改めることが大切だ、となってしまいます。ただしルカの場合は、権力としての多数派の99が少数派の1を追い出したという話となり、イエス・キリストは99を捨てるようにしてでも1を尊重するという文脈になります。すなわち、悔い改めるのは1の側ではなく、99の側が悔い改めるべきであるという、マタイとは逆の発想があるように思われます。
 これを踏まえて今日の聖書に戻っていくと、「真理から迷い出た者」のイメージを、たとえば富の問題、知恵の問題から考えています。富の問題からすれば、教会に金の指輪をはめた立派な身なりの人が来た時と汚い格好をした人が来たときで扱いが全く違ってしまう態度、分け隔てをしてしまう状態がある(総体としての富をも射程に入れている)。知恵の問題にしても、人間の知恵を過信し思い上がり、知恵のあるなしで人を分け隔てする発想がある。そういう不平等な差別的なことが起こってしまっている教会の状況に対して信仰が試されているのです。試練を耐え忍ぶことによって、自由の律法であるところの正しい道、よりイエス・キリストの思いに適ったところに引き戻すという意味での「あなたがたの中に真理から迷い出た者がいて」なのです。そこで「真理へ連れ戻す」ことがテーマとなるのです。これをヤコブの手紙の文脈の中では、教会の内外で人間関係の不平等なあり方を正していく必要があると述べようとしています。
 教会だけでなく、人間関係において序列というものをなくしていく道が「あなたがたの中に真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を真理へ連れ戻す」ということです。迷いだしてしまう人を作り出してしまうような状況を無化していくということです。そのために、わたしたちの発想自体を転換しなければいけないところに立たされているのです。

2017年7月16日 (日)

ヤコブの手紙 5章12~18節 「祈りに生きる」

 自分ではなく神のみが唯一の正しい方であるとの前提に立てば、自ずと自らは相対的存在であることが知らされます。この相対的存在である自分の位置を、「然り」を「然り」「否」を「否」とすることによって整えていこうという祈りの生活への招きが13節から18節で語られているのです。
 ヤコブの手紙の著者は、彼が見ている教会の様々な悪弊は、祈る生き方に立ち返ることによって乗り越えられると信じていたのです。一人で神の前に祈りながら自己相対化が起こってくると同時に、他者であるキリスト者同士が教会の中で祈り祈られという関係性へと育てられていくのです。そして、キリストの具体としての交わり・コミュニケーションへと変えられていくときに、教会が教会として相応しく整えられていくに違いないと信じているのでしょう。この祈り祈られている関係・コミュニケーションは主イエスの守りにある限り、確かで大きな力になるのです。
 誰かを覚えて祈る、その祈りは、主イエスの神による結ばれ方を言葉として表明しており、祈りに対して聞き耳を立て続けている神からの何らかの働きかけによって、わたしたちは神がこの場で働いていてくださることを信じることができるのです。つまり、エリヤの時がそうであったように、神は天におられて何もしないのではなくて歴史に介入すると信じられるということです。
 イエス・キリストご自身がすでに呼びかけて教会を起こしており、そこに招かれてしまっているので祈りは応答なのです。神に対して応えていくという責任的なことです。祈りにおいて自己相対化がなされると同時に他者との交わりにつながっていくことです。
 ヤコブの手紙において祈りとは、混乱した教会を主イエスに相応しい道へと取り戻していく基本的態度なのです。祈りは主イエス・キリストの迫りに対する応答としての共同体の広がりにおけるものです。と同時に、この世におけるキリスト者としての戦いの言葉でもあるはずです。いかにして生きるべきかを相対化しつつ、福音の導きにおいて前進させうる力あるものなのです。きっと何かが変わってくるはずです。主の導きのもとで、主イエスに相応しくされていく祈りは観念ではなく、具体としての力があるからです。祈り祈られという教会の結ばれ方は、主イエスの守りと導きがある限り、この世において神が教会を整えていくに違いないからです。ヤコブの手紙の信仰に立ち返っていくならば、この街に建てられた教会の使命を全うするために、祈りに生きる教会として共々歩んでいけるように祈り続けましょう。

2017年7月 9日 (日)

ヤコブの手紙 5章7~11節 「待ちながら」

 ヤコブの手紙は当時の教会の現実の中で、ここで踏ん張らなくては教会が教会でなくなってしまうのだという危機感をもっているようです。神をないがしろにし、富や知恵を優先させる風潮が蔓延している中で、神に立ち返ることを教会に取り戻そうとしているのです。そのあり方として辛抱とか我慢、忍耐するようにと促しているのです。
 ヤコブの手紙には忍耐によって「心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人」の状態から「完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人」への成長の道筋が備えられていることが描かれていいます。ここでの忍耐とは、嫌なこととか避けたいことを我慢するという気分の問題ではありません。5章7節には「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい」とあります。「主が来られるとき」を目指し、このときに希望をつなぎながら<今>を辛抱、我慢、忍耐する、その姿を神の御心に従った態度で生き抜くことが求められているという意味になります。
 農夫の待つ態度を旧約での預言者たちとヨブに例えています。エリヤはバアルの預言者たちに勝利しても逃げなくてはならない境遇に導かれてしまいます。激しい風や地震、火などの自然の中に神は語られず、静かにささやく神の声しかない。ヨブは一人で明確な答えが示されないままであっても、神に問い続けることをやめない。この共に孤立無援である二人に共通するのは、語りかけ祈るべき神の存在を前提としていることです。
 見捨てられ、孤立無援であるときにさえ「主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです。」という言葉を事実として受け止める受け皿としての信仰が問われているのです。神によって認められ支えられているところの辛抱や忍耐、我慢は幸せという人生の質を向上させるという約束がここには語られています。「5:10 兄弟たち、主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい。」ここで「辛抱と忍耐の模範」は「主の名によってかたった預言者たち」であるなら、「主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです。」という言葉の事実から始めていくことによってのみ可能だということです。
 キリスト者が何故、その可能性に拓かれているのかは、主イエスを見つめ思い起こすときに知らされるからです。神のゆえに重荷である見捨てられ感や孤立無援の中で辛抱や我慢、忍耐に生きることができます。そして、「主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです」という言葉に全幅の信頼をおいていた方だけが、わたしたちの主イエス・キリストなのです。
 この慈しみと憐みにおける主イエス・キリストへの思いを信仰として受け止めるならば、わたしたちの日ごとの辛抱や忍耐は主イエス・キリストご自身の喜びによって支えられた祝福の内におかれていることを知らされます。今を乗り越える希望に生きる道へと招かれていることが偽りではなく、まことの中のまことであるからです。

2017年7月 2日 (日)

ヤコブの手紙 4章13節~5章6節 「この世の富について」

 教会にとって、富の問題、お金の問題は、初代から現代にいたるまで様々な場所で様々な仕方で頭を悩ませ続ける、未解決の課題であると言えます。読み解くカギは4章15節の「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」という言葉にあります。「主の御心であれば」とは、「ヤコブの条件」と呼ばれている姿勢を表わしています。ここに立ちながら発想し、行動して証ししていく、ここにこそ教会のあり方があり、ここに向けての歩みへと整えていくようにとの促しがあるはずです。自らの遜りにおいて貧しい者に仕えていく道こそ、それを行いによって示す信仰こそが生きている者だとヤコブの手紙は主張しているのです。ヤコブの手紙の見ている諸教会は富や、富の側に立つ人々の言葉によって混乱しています。それに対して「上からの知恵」によって解決の道を探ろうとしてもがいていることが読み取れます。ヤコブの手紙は教会の中での富の問題を指摘しながらも、教会を超えて、その当時の社会のあり方を踏まえての富全般の問題性を見ています。教会が社会の富について、その不正について語り行動することは信仰的な行いなのだと考えているからです。
 現代日本はどうなのでしょうか。富む者がさらに富を蓄積し、貧しい者がより貶めらていく仕組みは古代のギリシャ・ローマ世界とそれほど大きく隔たっているのでしょうか。この富を巡る不正の問題をヤコブの手紙は、教会の行いとの関連で信仰的な事柄だと考えています。この意味で、今日の聖書を読むことは、この世の富を巡る諸問題が教会の信仰告白の事態でもあることを思い起こさせようとしているのではないでしょうか。富を富んでいる者のところに蓄積させ、さらなる資本の投入により、より弱い国々の資源を収奪搾取していく方向性に歯止めをかけ、水平社会、より弱い人々へと富を還元していく方向性を模索していく時が告げられているのかもしれません。
 日本国憲法第25条「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。2国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」。この規定は富を蓄積する勢力によって骨抜きにされています。富が貧しい者の生活権を脅かし、年齢を問わず貧困が国を覆っているのです。これだけ、この国に富が蓄積されていても水平社会とは、ほど遠いのです。
 これらの大きな課題は未解決のままで、わたしたちの前に大きく立ちはだかっています。しかし、希望はあるのだという励ましをもヤコブの手紙は語ろうとしているのです。お互いの知恵を絞っていく中で、迷っていても主の備えられた道に辿り着くことができるのだという信仰の歩みにつながることを願い、ご一緒に祈りましょう。誰もが今生きていることを喜んで暮らせる社会を来たらせようとした主イエス・キリストの思いを受け継いで歩んでいけたらと願っています。

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