コロサイの信徒への手紙 1章1~8節 「実を結んで成長し」
コロサイの信徒への手紙はパウロの名を借りた著者が80年ごろ、コロサイ(ラオディキアとヒエラポリスでも回覧されることが前提されている)に宛てて書かれた体裁をもっています。60年か61年の大地震で都市機能が働くほどには復興されてはいなかったと思われます。田川建三は「すでに存在しない町だから、偽作文書の架空の送り先として選びやすかった、ということだろう」と指摘しています。前半が理論編、後半が実践編である、という構成はローマの信徒への手紙と似ています。
この手紙はパウロ後の教会論と信仰論の発展の途上が表わされています。著者の問題意識は「人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。」(2:8)にあるように、いわゆる「異端」(彼らもキリスト教徒であるのですが)に対する論駁を行っているのです。
1:1-8は祝祷と挨拶にあたる部分です。ガラテアの信徒への手紙の冒頭のように「人々からでもなく、人を通してでもなく」と否定形・喧嘩腰で手紙を始めることはしていません。まず相手の教会の人たちと自分たちが同じ土俵に既に立たされていることが前提であることを強調しているのです。ただ、相手の主張を認めるような前振りから批判へとつなげていく慇懃無礼な方法論ではなく、違いを直截に批判するときに、相手の存在を全面的に認めるところから始めるという著者の「作法」の様なものがあるのです。
この態度が次の言葉にあります。すなわち、「あなたがたがキリスト・イエスにおいて持っている信仰と、すべての聖なる者たちに対して抱いている愛について、聞いたからです。それは、あなたがたのために天に蓄えられている希望に基づくものであり、あなたがたは既にこの希望を、福音という真理の言葉を通して聞きました。あなたがたにまで伝えられたこの福音は、世界中至るところでそうであるように、あなたがたのところでも、神の恵みを聞いて真に悟った日から、実を結んで成長しています。」(1:4-6)。と。キリストからの信仰と、それゆえの愛によって貫かれる「実を結んで成長してい」る現実に共に与っていることへの感謝からこそ、批判が相手の心に届く言葉として働くことを知っているからです。
この姿勢は現代教会も見習う必要があるはずです。日本基督教団について考えると、各個教会・教区・教団には様々な神学的・信仰的な違いは確実に存在します。その違いとどのように向かい合っていくのが相応しいのかを今日のテキストは告げています。相手も同じキリストにあることを感謝しつつ、正面から非難し合う自由に招かれていると。その前提として、極端な仕方で相手を切り捨てて終わりとしないこと。対話によって乗り越えることができるのだというキリストの信仰においてお互いが導かれていることを認めることから始めていけば、「否!」という非難の言葉も、貫かれる愛によって「実を結んで成長し」つつ、この歴史において教会として証しの道を歩むことができるのだと、わたしたちは知らされているのです。
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