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2017年7月 9日 (日)

ヤコブの手紙 5章7~11節 「待ちながら」

 ヤコブの手紙は当時の教会の現実の中で、ここで踏ん張らなくては教会が教会でなくなってしまうのだという危機感をもっているようです。神をないがしろにし、富や知恵を優先させる風潮が蔓延している中で、神に立ち返ることを教会に取り戻そうとしているのです。そのあり方として辛抱とか我慢、忍耐するようにと促しているのです。
 ヤコブの手紙には忍耐によって「心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人」の状態から「完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人」への成長の道筋が備えられていることが描かれていいます。ここでの忍耐とは、嫌なこととか避けたいことを我慢するという気分の問題ではありません。5章7節には「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい」とあります。「主が来られるとき」を目指し、このときに希望をつなぎながら<今>を辛抱、我慢、忍耐する、その姿を神の御心に従った態度で生き抜くことが求められているという意味になります。
 農夫の待つ態度を旧約での預言者たちとヨブに例えています。エリヤはバアルの預言者たちに勝利しても逃げなくてはならない境遇に導かれてしまいます。激しい風や地震、火などの自然の中に神は語られず、静かにささやく神の声しかない。ヨブは一人で明確な答えが示されないままであっても、神に問い続けることをやめない。この共に孤立無援である二人に共通するのは、語りかけ祈るべき神の存在を前提としていることです。
 見捨てられ、孤立無援であるときにさえ「主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです。」という言葉を事実として受け止める受け皿としての信仰が問われているのです。神によって認められ支えられているところの辛抱や忍耐、我慢は幸せという人生の質を向上させるという約束がここには語られています。「5:10 兄弟たち、主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい。」ここで「辛抱と忍耐の模範」は「主の名によってかたった預言者たち」であるなら、「主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです。」という言葉の事実から始めていくことによってのみ可能だということです。
 キリスト者が何故、その可能性に拓かれているのかは、主イエスを見つめ思い起こすときに知らされるからです。神のゆえに重荷である見捨てられ感や孤立無援の中で辛抱や我慢、忍耐に生きることができます。そして、「主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです」という言葉に全幅の信頼をおいていた方だけが、わたしたちの主イエス・キリストなのです。
 この慈しみと憐みにおける主イエス・キリストへの思いを信仰として受け止めるならば、わたしたちの日ごとの辛抱や忍耐は主イエス・キリストご自身の喜びによって支えられた祝福の内におかれていることを知らされます。今を乗り越える希望に生きる道へと招かれていることが偽りではなく、まことの中のまことであるからです。

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