ヤコブの手紙 5章19~20節 「真理に立ち返る」
今日の聖書の意味を確定するために、99と1の羊の話を取り上げます。この話はマタイとルカにありますが、マタイでは、99を山に残して、出ていった1を羊飼いが探しに行きます。ユダヤ教の伝統で「山」というのは神が語りかける場所であるとされ、そこから転じて聖なる場であると考えられていました。この系統にあるマタイは、山は教会と考えているのです。ですからマタイの場合、99は山という安全な教会に確保しておいて、そこから迷い出た1を探しに行くという姿勢です。これが一般的な99と1のたとえの解釈となります。そういう意味で教会から離れていった人、躓いていった人を何とか迎え入れたいという意味になります。
ルカの場合は、99を荒れ野に置いて1を探しに行きます。荒れ野に99を捨てて1を選ぶという判断なのです。そこに悔い改めの動機が入ってくるので、結論としてはマタイと同じように悔い改めることが大切だ、となってしまいます。ただしルカの場合は、権力としての多数派の99が少数派の1を追い出したという話となり、イエス・キリストは99を捨てるようにしてでも1を尊重するという文脈になります。すなわち、悔い改めるのは1の側ではなく、99の側が悔い改めるべきであるという、マタイとは逆の発想があるように思われます。
これを踏まえて今日の聖書に戻っていくと、「真理から迷い出た者」のイメージを、たとえば富の問題、知恵の問題から考えています。富の問題からすれば、教会に金の指輪をはめた立派な身なりの人が来た時と汚い格好をした人が来たときで扱いが全く違ってしまう態度、分け隔てをしてしまう状態がある(総体としての富をも射程に入れている)。知恵の問題にしても、人間の知恵を過信し思い上がり、知恵のあるなしで人を分け隔てする発想がある。そういう不平等な差別的なことが起こってしまっている教会の状況に対して信仰が試されているのです。試練を耐え忍ぶことによって、自由の律法であるところの正しい道、よりイエス・キリストの思いに適ったところに引き戻すという意味での「あなたがたの中に真理から迷い出た者がいて」なのです。そこで「真理へ連れ戻す」ことがテーマとなるのです。これをヤコブの手紙の文脈の中では、教会の内外で人間関係の不平等なあり方を正していく必要があると述べようとしています。
教会だけでなく、人間関係において序列というものをなくしていく道が「あなたがたの中に真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を真理へ連れ戻す」ということです。迷いだしてしまう人を作り出してしまうような状況を無化していくということです。そのために、わたしたちの発想自体を転換しなければいけないところに立たされているのです。
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