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2017年6月

2017年6月25日 (日)

ヤコブの手紙 4章1~12節 「神は近いのだから」

 教会の中に「戦い」や「争い」があることは古代も現代も変わりがありません。混乱した教会を正すために神からの歩み寄りを受け入れるときにはじめて「神に服従し、悪魔に反抗しなさい」が事実として起こり、「神に近づきなさい、そうすれば神は近づいてくださいます」という方向性が与えられるのです。それは、自らを正当化する信仰理解を相対化し、自己吟味をすべきということです。これも人間の価値判断や価値基準を物差しとして図るのでは、結局人間に依り頼むことから自由ではありません。イエス・キリストの神の側から語られているところにのみ根拠があるところから始める、これが原則です。
 人間が人間の知恵や力を用いて神とは何かを追求していった延長線上には、神はいないのだと認めることが重要です。人間には神を知る知識がそもそも与えられていないのです。神の側からの語りかけからしか、信仰は起こされえないからです。人間の信仰の始まりは、まず受けるところから始まります。この世を友とするのではなく、イエス・キリストの歩み寄りにおいて、神をこそ友とする生き方だというのです。わたしたちが神に近づき友となる道は、まず主イエスが先にわたしたちに向かっておられることに根拠があります。福音書の証言によれば、様々な奇跡物語や論争物語において、弱りや病、差別に対して、そこにいる一人ひとりの<いのち>のかけがえのなさを復権したのです。
 出会いを求めるイエス・キリストから照らされて、それを反射させていく道こそが神の近さに生かされて行くことなのではないでしょうか。主イエス・キリストに委ねていけば、教会という共同体は相応しく整えられていくに違いないのです。確かに、一筋縄ではいかないかもしれません。日本キリスト教団に限ってみてみても、教団も教区も教会も、立場の違いによる対立関係は確実にあると言わなければなりません。お互いが自分は神において正しい、という「確信」に満ちている中での論争は不毛です。まず、自分と同様に相手の背後にも神がおられるのだと、目を凝らすことが必要です。
 違いがあることを認め、自己相対化しつつ、対話の可能性を探るということ。ヤコブの手紙の主張は、この方針と共鳴していると言えると思います。
 教会の教会らしさの復権が導かれていく中で、わたしたち一人ひとりの信仰者としての生き方は整えられていくはずです。その期待をもって歩むことが赦されているからです。ここから何度でも最初から始めたらいい、それだけのことです。近づきつつある主イエスが一緒にいてくだされば、こちら側から応答して神に近づく教会の歩みがあり、神が友となってくださった事実に支えられて神の友となっていく道があるのです。このことが確実であることに信頼していけば、心配するには及ばないのです。神の近さゆえに、神の友として受け入れられていることを根拠にして、自己相対化と自己吟味すつつ他者との関係を整えていく中に、教会の結ばれ方も確認できるでしょう。

2017年6月18日 (日)

ヤコブの手紙 3章13~18節 「平和に生きる道」

 何故人間は知恵を悪用し、また濫用し、幸せよりも不幸を、平和よりも戦争を、命よりも死を求めてしまうのかと。聖書はこの疑問について創世記の原初物語で語っています。いのちを不幸にする知恵がどこから来たのかについてはアダムとエバが禁断の果実を食べたゆえ、人間は「目が開け、神のように善悪を知るものとなること」を選んでしまったのだと(創世記3:1-6)。さらに、人間の高ぶり、傲慢さへの裁きとしてノアの物語があり、「神のように」という動機はバベルの塔の物語(創世記11:1-9)へと続いていきます。これら原初史(創世記1~11章)の書かれた背後にはダビデ・ソロモンの王朝に対する批判があることが想定されます。富の集中を王朝にもたらすことは、より貧しいところから搾り取る仕方で、富と労働力、軍事力を優先する仕組みを構築しなければなりません。ダビデ・ソロモンは知恵を、神に栄光を帰することよりも自らの欲望の奴隷として利用したのです。知恵は人間の意思に委ねられるとき、人々をより不幸な社会の仕組みの中へと導いていくのだと言えます。
 ヤコブの手紙3章13~16節は、人間の知恵の悪しき現実を指摘し、17~18節では、あるべき知恵の方向性についての提案がなされます。人間が自らの知恵に寄りすがっていくことではなくて、主イエスの知恵に導かれて行くことにおいてのみ、平和の道に連なることができるのだというのです。人間の知恵に対する謙虚さ、遜りを再認識していくことに他なりません。
 諸々の「知恵」の働きや影響は、わたしたちの教会の中にも日々の生活の中にも染み込んでしまっています。この世の「知恵」と神に基づく「知恵」との区別ができなかったり、混同されていたりと、より複雑になっています。今、人を生き生きとさせ喜び合うことへと向かわせるところの「上からの知恵」のあり方にまず注目し、ここから教会を、この社会を、またわたしたち個人から様々な人間同士の関係に至るまで、神に相応しいあり方なのかを自己検証しながら整えていくことが大切です。このことを課題として歩んで行くことをヤコブの手紙は語りかけているのではないでしょうか。この問いから無責任に逃れることなく対峙していくところに、現代のキリスト者の使命があるに違いないのです。人のいのちが悪魔的力に飲み込まれている時代にあって、教会の使命は決して軽くはないからです。「聖書においてわれわれに証しされているイエス・キリストは、われわれが聞くべき、またわれわれが生と死において信頼し服従すべき神の唯一の御言葉である。」(バルメン宣言第1テーゼから)事実を受け止め、共に歩む群れとして整えられることをご一緒に祈りましょう。

2017年6月11日 (日)

マタイによる福音書 6章25~34節 「神さま、お願いします」

(子どもとおとなの合同礼拝)
 子どももおとなも自分の将来について、色々と考えることがあります。子どももおとなもなりたい自分を想像し、そこに向けて努力していくことは大切です。しかし、まず第一に、もっと大切なことを忘れてはいけないのだと主イエスは語るのです。
 あなたたちは、今生きているだけで充分神さまに喜ばれているのだよ、くよくよして考え込まなくても大丈夫だよ。いつだって、全くの条件なしにあなたは祝福されているのだよ。このことさえ忘れなければ、きっと大丈夫。そんな主イエスの言葉に心を向けましょう。
 そのたとえとして、空の鳥や野の花を見なさいと促しています。空の鳥も野の花も、鳥は鳥であること以外に、花は花であること以外に何の努力もしていません。でも、<今ここで>あるがままの姿で神さまに喜ばれているのです。人間であるあなたたちは、鳥や花以上に神さまにとって大切な存在です。だから、きっと大丈夫、と励ましの言葉を語りかけているのです。
 マックス・ベルジュイスの『かえるくんはかえるくん』という絵本があります。優雅に飛ぶあひる、モノ作りの上手なねずみ、ケーキ作りの得意なぶた、物知りの野うさぎ、そんな友人たちに比べ、自分は何もできないただのかえるだと打ちひしがれます。けれど、野うさぎに「緑色のただのかえるの君がぼくたちは好きなんだよ」と言われ、今、あるがままの自分自身をOKとできたのです。神さまに任せていく生き方は今の生命はそのままで、「空の鳥、野の花」と同じです。すでに神さまから見れば美しいのです。
 「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(6:34)。悩みや思い悩みもすべてがなくなるわけではありません。今日生きるために必要な苦労は負わねばならないのです。しかし、将来についての苦労を今のことにする必要はないのです。今日を生き抜くことにこそ、将来への責任と可能性が約束されていくのだという、主イエスの教えに学ぶ必要があるのではないでしょうか。テストに合格したらご褒美をあげる、○○ができるようになったらあなたはもっと素晴らしい、という条件は一切ないのです。このままのわたしたちが、今、神から祝福されているのです。今のままで、わたしはOKということ、そして同じようにあの人もこの人もそのままでOKと神さまから祝福されていることを想像すること、みんながそうなったら、この世界は、もっとずっと生きやすくなるでしょう。そのようなわたしたちにしてください、神さま、お願いします、という気持ちをもちながら、主イエスを信じていきましょう。

2017年6月 4日 (日)

使徒言行録 2章1~13 「聖霊に満たされて」

 今日の聖書は、ガリラヤ人である弟子たちの語る言葉が、地中海沿岸の様々な国から来ている人々の母語として聞かれるという奇跡が起こったのだと記しています。この物語は聖霊の働きである「炎のような舌」は、言葉によってお互いの思いが腑に落ちる仕方で共鳴することが起こることであり、この共鳴によって真実の言葉のあり方とか行方について知らせようとする意図があるのではないでしょうか。
 創世記のバベルの塔の物語(創世記11:1-9)を思い起こします。人間が人間であることをわきまえず、創造者であるかのごとく考え、遺伝子操作などにまで手を出す人間の傲慢さや思い上がりについてです。この被造物である世界、神によって「よし」とされたはずの世界が破滅に向かう途上にあると。バベルの塔の建築をやめさせるために神は言葉を混乱させました。聖霊降臨の出来事は言葉が再び通じ始めるという奇跡です。しかし、バベルの塔の建築を再開させるような意味や意図のもとではありません。人間が自らの能力を誇るのではなく、人間の限界の中で与えられた役割に誠実に応えていくために、言葉は与え直されたのではないでしょうか。人間同士のコミュニケイション、話せば分かるはずだというところにこそ可能性があるのだと。
 対話の可能性の根拠は人間の側にはないし、作り出すこともできないのです。「炎のような舌」としか呼べないような、突然やってくる神からの働きです。イエス・キリストの意思・願いです。生前の主イエス・キリストが目指したところの水平社会です。聖霊の導きのもとで言葉を通じさせていくことによって、人間性の破壊ではなく、心と心が言葉によって共鳴し、共に生きる喜ばしさへと招かれているのだと確認したいのです。人間同士の関係性の再構築なのかもしれません。
 現代社会は世界的に、憎しみとか軽蔑という回路によって組み換えられつつあります。世界は、自分の国、自分の民族、自分の地方を第一とする、このような発想に支配されつつあります。
 今日の物語は、このような「○○ファースト」というエゴイズムを正面から否定する信仰的理解の表明です。聖霊のもたらす言葉の働きとは、人間の尊厳を取り戻すための神の側からの呼びかけの信仰なのです。この聖霊の働きに委ねていくならば、主イエスの言葉につながっていくことができるはずです。このような方向性を言葉において聖霊に満たされていく道が聖霊降臨の出来事です。あの日、あの時教会に与えられたサプライズギフトです。この聖霊という贈り物を受けた初代の教会に連なるものとしての責任に生きることを確認したいと思います。言葉という不便な道具を用いながらも、心と心が共鳴し、つながり合っていくところから新しい世界観が示されていくに違いないと信じることができるからです。そのためのイエス・キリストの聖霊の力に委ねて祈りましょう。

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