ヤコブの手紙 4章1~12節 「神は近いのだから」
教会の中に「戦い」や「争い」があることは古代も現代も変わりがありません。混乱した教会を正すために神からの歩み寄りを受け入れるときにはじめて「神に服従し、悪魔に反抗しなさい」が事実として起こり、「神に近づきなさい、そうすれば神は近づいてくださいます」という方向性が与えられるのです。それは、自らを正当化する信仰理解を相対化し、自己吟味をすべきということです。これも人間の価値判断や価値基準を物差しとして図るのでは、結局人間に依り頼むことから自由ではありません。イエス・キリストの神の側から語られているところにのみ根拠があるところから始める、これが原則です。
人間が人間の知恵や力を用いて神とは何かを追求していった延長線上には、神はいないのだと認めることが重要です。人間には神を知る知識がそもそも与えられていないのです。神の側からの語りかけからしか、信仰は起こされえないからです。人間の信仰の始まりは、まず受けるところから始まります。この世を友とするのではなく、イエス・キリストの歩み寄りにおいて、神をこそ友とする生き方だというのです。わたしたちが神に近づき友となる道は、まず主イエスが先にわたしたちに向かっておられることに根拠があります。福音書の証言によれば、様々な奇跡物語や論争物語において、弱りや病、差別に対して、そこにいる一人ひとりの<いのち>のかけがえのなさを復権したのです。
出会いを求めるイエス・キリストから照らされて、それを反射させていく道こそが神の近さに生かされて行くことなのではないでしょうか。主イエス・キリストに委ねていけば、教会という共同体は相応しく整えられていくに違いないのです。確かに、一筋縄ではいかないかもしれません。日本キリスト教団に限ってみてみても、教団も教区も教会も、立場の違いによる対立関係は確実にあると言わなければなりません。お互いが自分は神において正しい、という「確信」に満ちている中での論争は不毛です。まず、自分と同様に相手の背後にも神がおられるのだと、目を凝らすことが必要です。
違いがあることを認め、自己相対化しつつ、対話の可能性を探るということ。ヤコブの手紙の主張は、この方針と共鳴していると言えると思います。
教会の教会らしさの復権が導かれていく中で、わたしたち一人ひとりの信仰者としての生き方は整えられていくはずです。その期待をもって歩むことが赦されているからです。ここから何度でも最初から始めたらいい、それだけのことです。近づきつつある主イエスが一緒にいてくだされば、こちら側から応答して神に近づく教会の歩みがあり、神が友となってくださった事実に支えられて神の友となっていく道があるのです。このことが確実であることに信頼していけば、心配するには及ばないのです。神の近さゆえに、神の友として受け入れられていることを根拠にして、自己相対化と自己吟味すつつ他者との関係を整えていく中に、教会の結ばれ方も確認できるでしょう。
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