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2017年5月

2017年5月28日 (日)

ヤコブ3:1-12「真実の言葉から/を」

 口は禍の元とは言いますが、初期の教会からすでに言葉における破綻があったようです。3章8節にあるように 「しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。」と。それでは、教会は全く希望がなくて、焼き尽くし、関係を破壊しつくす「舌」の働きによって破滅の道を辿っていると考えたらいいのでしょうか。8節後半の「舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。」という言葉を読むと教会には救いがないようにさえ思われます。
 今日の聖書をもう少し注意して読んでみましょう。3章9節と10節には次のようにあります。「わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。」8節に「舌を制御できる人は一人もいません。」とありますので、わたしたちの言葉の可能性には呪いの方向性しかもたされていないはずです。しかし、同じ文脈で「賛美」も「舌」や「口」の働きに対して開かれていると述べていることに注目したいのです。
 人間が自らに頼り自らを誇り、自らで自らを立てようとするなら「舌で、神にかたどって造られた人間を呪います」という道しかありません。しかし、舌を制御し、賛美への道はあるのだし、ここにこそ教会のあり方はあるのだとヤコブの手紙は語ります。3章6節に代表される「舌は火です。舌は「不義の世界」です。」という言葉は、人間が自らに依り頼むことで、神を忘れてしまうことへの警告です。3章7節の「あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御されています」という意味は、正確には「均衡を保つように仕えていく」意味でしょうが、これを人間自身に対しても適用することができるというのは勘違いです。人間には人間自身を制御することができないのです。人間は自分の言葉を建設的に用いることができないというのがヤコブの手紙の判断です。その上で、人間の口は賛美にも開かれているのだと語ります。ただし、人間の側からではなく、神の側からしかその道はないのであり、そこへ立ち返れとヤコブの手紙は導こうとしているのです。
 立ち返りの根拠は、1章19-22節ですでに語られています。「御言葉を行う道」です。前もって御言葉というものがあるわけではありません。イエス・キリストご自身の生涯において示された振る舞いと言葉、十字架へと歩まれた道行きの中での招きの言葉です。このイエス・キリストという御言葉こそを真実の言葉として聞き、その応答として真実の言葉に向かっての言葉を紡いていくことを、その都度最初から始めること。ここに教会の存在の基本があるのです。神に由来する真実の言葉から聴くことによって、神に由来する真実の言葉を紡ぎだしていくこと、この途上において固く立つならば、「舌を制御できる人は一人もいません」と言わざるを得ない教会の現実の中で、しかし、だからこそあえて神への応答としての賛美である「口は幸いと賛美をもたらす信仰」が起こされることに信頼しつつ歩む群れになることができるはずです。

2017年5月21日 (日)

ヨハネによる福音書 5章1~18節 「癒しの奇跡」

                                      山田康博(大泉教会牧師)

 イエスが「ベトザタ」の池に行かれました。この池を取り巻く五つの回廊に、「病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた」4節)。病や障害を負った多くの人々がこの池に集まっていた。「ベトザタ」は「慈悲の家」という意味がこの池にはあり、その名前ゆえに病める方々が集まって来た。「ベトサダ」は一定の間隔を置いて水が噴き出していた。「水が動く時(7節)があった。これは新たな成分が間欠的に噴き出して来る。そのことを体験的に知っていた病人たちは、その瞬間を狙って池に降りて行った。大勢の病める方々に交じり<「38年も病気で苦しんでいる人」(5節)が横になっていた。長い時です。当時、この人がいったい幾つだったのか?病気になって38年は、耐え難く長い。精神科医の神谷美恵子さんは1943年、戦争の最中、岡山県の長島愛生園(ながしまあいせいえん)に見学に行った。2,000人余りの患者たちは栄養失調である上、むりな畑仕事をしなければならなかった。病は悪化の一途をたどり、毎日のように死亡者が出た。愛生園には、ハンセン病の後遺症で肢体不自由になっている人がたくさんいた。その人たちの前に立つとき、座る時、突如として心に響いてくる言葉があった。「なぜ私たちでなくてあなたが?あなたは代わってくださったのだ。」あまりにも無残な姿に接するとき、心のどこかが切なさと申し訳なさで一杯になる。これはおそらく医師としての、また人間としての、原体験のようなものだろう。心の病にせよ、からだの病にせよ、すべて病んでいる人に対する、この負い目の感情は一生つきまとって離れないのかもしれないと述懐している。
 イエスは、池に集う大勢の中からこの人、この一人の人を見つけたのでした。イエスという方は、実に鋭敏な感性の持ち主、感受性が豊かな方であった。大勢の中に紛れていても「誰が今苦しんでいるか」、「誰がそのような状況の中で絶望しかかっているか」、「今助けを必要としているのは誰か」、そういうことをイエスにはすぐに分かった。イエスにはその人が、「もう長い間病気であるのを知って」(6節)いた。それはイエスは、大勢の人々の中から、「本当にこの人は助けを必要としている!」ことを、すぐに見分けてこの人のところに行った。「良くなりたいか」(6節)と聞いた。今、その人にとって最も必要な言葉をかけたのだと思います。それは「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい(8節 )という言葉でした。イエスは、この病める人が、誰も関わってくれることない孤独の中で、これまで聞いたことのない「福音」を語ったということではないでしょうか。「あなたは人生を殆ど投げてしまっているが、絶望する必要はないのだ。私があなたと共にいる。神があなたと共にいるのだ。私があなたと共にいて、あなたを立ち上がらせる。だから起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」。

2017年5月14日 (日)

ヤコブの手紙 2章14~26節 「生きて働く信仰」

 14節で「わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。」このように問います。「何の役に立つでしょうか」という問いには、すでに「役に立つはずがない」という意味が込められています。
 教会は、この世に生きる具体的な人間の集まりです。だからこそ、教会はこの世に対してイエス・キリストの信仰のゆえに責任と義務における行いが求められているのです。
 ヤコブの手紙は、「行いを伴わない信仰は死んだものです」として、行いのない信仰を批判しながら、文言にはあらわされてはいませんが、教会の課題は生きて働く信仰にこそあるのだから、あなたがたはどのような決断をもって神の前に立つのか、と同時にわたしたちに問いかけているのです。あなたがたの信仰は果たして信仰に値するのか、と。
 ヤコブの手紙の主張する「行い」とは、信仰によって導かれる総体としての律法です。隣人を愛していくことを中心に据えた、お互いがお互いのいのちを喜び合い、支え合い、共に生きるための人間が人間になっていくための行いです。この行いは教会という閉じられた空間・時間が開かれていくところに成立していくとヤコブの手紙は信じていると思われます。礼拝が「派遣・祝祷」で締めくくられることを真剣に受け止めたいと思います。隣人愛に生きる教会の行いを伴う信仰は、派遣されていくそれぞれの場で主イエスの導きと守りの中で出来事として必ず起こされる、という約束にキリスト者は生きるのです。
 本来、祈りとは戦いの言葉なのです。いかにして共に生きるべきかという神からの問いかけに応えるべく自分の言葉を紡ぐ行為です。深く祈る人は積極的に行う人であります(たとえば関田寛雄牧師の祈りと戦いの姿勢や中村哲医師の働きなどが思い浮かびます)。行動の伴わない祈りは偽りです。人は自己欺瞞に陥り、自分を頼みとする不信仰に導かれています。行いを伴わない信仰を排除しながら歩むところに、生きて働く信仰が動き始めているのです。
 生きて働く信仰とは、主イエス・キリストご自身です。主イエスが神の御心に生きたあり方において政治的であった、それ故わたしたち自身も政治的な決断の中に生きることが求められているのです。無関心とか事なかれ主義や、その時々の権力に身を委ねたりおもねったりするあり方は、政治的権力に飲み込まれてしまう危険があります。深い祈りは、その誘惑を退けます。主イエスも伝道活動を始めるとき、その悪魔の誘惑の呼び声と対峙し、勝利したのです(たとえばルカ4:1-13)。ですから、今一度、主イエスの誘惑に打ち勝った姿から学びつつ、わたしたち自身に生きて働く信仰を求め、権力からの誘惑を退け、祈りつつ歩んでいきましょう。

2017年5月 7日 (日)

ヤコブの手紙 2章1~13節 「恵みを分かち合う道」

 富んでいる者が優遇され、貧しい者がないがしろにされる現実が教会において明確に起こっているとヤコブは指摘します(2:2-4>)。金持ちには立派は席を用意し、貧しい者には「そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」という態度に、こちら側とあちら側として教会の中に壁を築き上げる差別思想が明確に表わされています。
 教会の中で富んでいる者と貧しい者との間に壁を築き上げることで教会の教えが著しく破壊されているというのです。そこでヤコブの手紙は皮肉を込めながら神の教えとして律法論を展開することで「憐み」によって関係を整えていく提案をしています(2:7-13)。教会が人間の集まりである以上この世の価値観から完全に自由でない。この自覚のないところでは世俗の価値観に飲み込まれてしまうのです。この人間関係の中に富をめぐって壁が築かれてしまうことによって、あるべき人間関係の豊かさを疎外する現実は古代から現代において途絶えては来ませんでしたし、この意味で古代の問題は現代の問題でもあるのです。
 ヤコブの手紙を読んでいくと、富んでいく側を糾弾し、その責任を追及しています。ヤコブの富んでいるものに対する教会批判は5章で展開されています。さらには4:13から読むならば、彼らが富んでいるのは商売によるものです。ヤコブの手紙の判断では、富んでいる者が富んでいるのは不正によるものであり、富自体を罪だと考えています。したがって、富によって壁が築かれているのであれば、壁を破壊する責任は富む側にあるということです。「富は壁を破壊するために用いられるなら正当な使い方である」という道しか残されないと理解することになります。お金がかかることですから壁は貧しい者の側から築き上げることができないのです。ですから、壁を破壊する費用は富む側が負担すべきなのです。このあり方を「憐み」の具体的行動と呼んでいいのかもしれません。
 分け隔ての壁を破壊していくことによって教会を整え、社会を水平社会へと変えていく道は、ヤコブの手紙の主張する律法を守る道にあると言えます。そしてこの内容は福音としての主イエス・キリストの振る舞いから照らされることによってのみ可能性が開けてくるのです。
 分け隔てを破壊しながら人とのつながりを回復していくのは、分かち合いの道であろうと思われます。恵みを分かち合う道です。それには、富んでいる者が謙虚さを取り戻していく関係性を整えていくほかないのでしょう。富んでいる側からの「憐み」の回復が解決の初めの一歩になるはずです。ここにおいて教会が「恵みを分かち合う道」が備えられているのです。ここを確認しながら、わたしたちの教会の富についての考えが整えられることと同時に世界のあり方についての考える方向を整えつつ、祈りましょう。

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