ヤコブ3:1-12「真実の言葉から/を」
口は禍の元とは言いますが、初期の教会からすでに言葉における破綻があったようです。3章8節にあるように 「しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。」と。それでは、教会は全く希望がなくて、焼き尽くし、関係を破壊しつくす「舌」の働きによって破滅の道を辿っていると考えたらいいのでしょうか。8節後半の「舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。」という言葉を読むと教会には救いがないようにさえ思われます。
今日の聖書をもう少し注意して読んでみましょう。3章9節と10節には次のようにあります。「わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。」8節に「舌を制御できる人は一人もいません。」とありますので、わたしたちの言葉の可能性には呪いの方向性しかもたされていないはずです。しかし、同じ文脈で「賛美」も「舌」や「口」の働きに対して開かれていると述べていることに注目したいのです。
人間が自らに頼り自らを誇り、自らで自らを立てようとするなら「舌で、神にかたどって造られた人間を呪います」という道しかありません。しかし、舌を制御し、賛美への道はあるのだし、ここにこそ教会のあり方はあるのだとヤコブの手紙は語ります。3章6節に代表される「舌は火です。舌は「不義の世界」です。」という言葉は、人間が自らに依り頼むことで、神を忘れてしまうことへの警告です。3章7節の「あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御されています」という意味は、正確には「均衡を保つように仕えていく」意味でしょうが、これを人間自身に対しても適用することができるというのは勘違いです。人間には人間自身を制御することができないのです。人間は自分の言葉を建設的に用いることができないというのがヤコブの手紙の判断です。その上で、人間の口は賛美にも開かれているのだと語ります。ただし、人間の側からではなく、神の側からしかその道はないのであり、そこへ立ち返れとヤコブの手紙は導こうとしているのです。
立ち返りの根拠は、1章19-22節ですでに語られています。「御言葉を行う道」です。前もって御言葉というものがあるわけではありません。イエス・キリストご自身の生涯において示された振る舞いと言葉、十字架へと歩まれた道行きの中での招きの言葉です。このイエス・キリストという御言葉こそを真実の言葉として聞き、その応答として真実の言葉に向かっての言葉を紡いていくことを、その都度最初から始めること。ここに教会の存在の基本があるのです。神に由来する真実の言葉から聴くことによって、神に由来する真実の言葉を紡ぎだしていくこと、この途上において固く立つならば、「舌を制御できる人は一人もいません」と言わざるを得ない教会の現実の中で、しかし、だからこそあえて神への応答としての賛美である「口は幸いと賛美をもたらす信仰」が起こされることに信頼しつつ歩む群れになることができるはずです。
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