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2017年5月21日 (日)

ヨハネによる福音書 5章1~18節 「癒しの奇跡」

                                      山田康博(大泉教会牧師)

 イエスが「ベトザタ」の池に行かれました。この池を取り巻く五つの回廊に、「病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた」4節)。病や障害を負った多くの人々がこの池に集まっていた。「ベトザタ」は「慈悲の家」という意味がこの池にはあり、その名前ゆえに病める方々が集まって来た。「ベトサダ」は一定の間隔を置いて水が噴き出していた。「水が動く時(7節)があった。これは新たな成分が間欠的に噴き出して来る。そのことを体験的に知っていた病人たちは、その瞬間を狙って池に降りて行った。大勢の病める方々に交じり<「38年も病気で苦しんでいる人」(5節)が横になっていた。長い時です。当時、この人がいったい幾つだったのか?病気になって38年は、耐え難く長い。精神科医の神谷美恵子さんは1943年、戦争の最中、岡山県の長島愛生園(ながしまあいせいえん)に見学に行った。2,000人余りの患者たちは栄養失調である上、むりな畑仕事をしなければならなかった。病は悪化の一途をたどり、毎日のように死亡者が出た。愛生園には、ハンセン病の後遺症で肢体不自由になっている人がたくさんいた。その人たちの前に立つとき、座る時、突如として心に響いてくる言葉があった。「なぜ私たちでなくてあなたが?あなたは代わってくださったのだ。」あまりにも無残な姿に接するとき、心のどこかが切なさと申し訳なさで一杯になる。これはおそらく医師としての、また人間としての、原体験のようなものだろう。心の病にせよ、からだの病にせよ、すべて病んでいる人に対する、この負い目の感情は一生つきまとって離れないのかもしれないと述懐している。
 イエスは、池に集う大勢の中からこの人、この一人の人を見つけたのでした。イエスという方は、実に鋭敏な感性の持ち主、感受性が豊かな方であった。大勢の中に紛れていても「誰が今苦しんでいるか」、「誰がそのような状況の中で絶望しかかっているか」、「今助けを必要としているのは誰か」、そういうことをイエスにはすぐに分かった。イエスにはその人が、「もう長い間病気であるのを知って」(6節)いた。それはイエスは、大勢の人々の中から、「本当にこの人は助けを必要としている!」ことを、すぐに見分けてこの人のところに行った。「良くなりたいか」(6節)と聞いた。今、その人にとって最も必要な言葉をかけたのだと思います。それは「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい(8節 )という言葉でした。イエスは、この病める人が、誰も関わってくれることない孤独の中で、これまで聞いたことのない「福音」を語ったということではないでしょうか。「あなたは人生を殆ど投げてしまっているが、絶望する必要はないのだ。私があなたと共にいる。神があなたと共にいるのだ。私があなたと共にいて、あなたを立ち上がらせる。だから起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」。

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