ヤコブの手紙 2章14~26節 「生きて働く信仰」
14節で「わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。」このように問います。「何の役に立つでしょうか」という問いには、すでに「役に立つはずがない」という意味が込められています。
教会は、この世に生きる具体的な人間の集まりです。だからこそ、教会はこの世に対してイエス・キリストの信仰のゆえに責任と義務における行いが求められているのです。
ヤコブの手紙は、「行いを伴わない信仰は死んだものです」として、行いのない信仰を批判しながら、文言にはあらわされてはいませんが、教会の課題は生きて働く信仰にこそあるのだから、あなたがたはどのような決断をもって神の前に立つのか、と同時にわたしたちに問いかけているのです。あなたがたの信仰は果たして信仰に値するのか、と。
ヤコブの手紙の主張する「行い」とは、信仰によって導かれる総体としての律法です。隣人を愛していくことを中心に据えた、お互いがお互いのいのちを喜び合い、支え合い、共に生きるための人間が人間になっていくための行いです。この行いは教会という閉じられた空間・時間が開かれていくところに成立していくとヤコブの手紙は信じていると思われます。礼拝が「派遣・祝祷」で締めくくられることを真剣に受け止めたいと思います。隣人愛に生きる教会の行いを伴う信仰は、派遣されていくそれぞれの場で主イエスの導きと守りの中で出来事として必ず起こされる、という約束にキリスト者は生きるのです。
本来、祈りとは戦いの言葉なのです。いかにして共に生きるべきかという神からの問いかけに応えるべく自分の言葉を紡ぐ行為です。深く祈る人は積極的に行う人であります(たとえば関田寛雄牧師の祈りと戦いの姿勢や中村哲医師の働きなどが思い浮かびます)。行動の伴わない祈りは偽りです。人は自己欺瞞に陥り、自分を頼みとする不信仰に導かれています。行いを伴わない信仰を排除しながら歩むところに、生きて働く信仰が動き始めているのです。
生きて働く信仰とは、主イエス・キリストご自身です。主イエスが神の御心に生きたあり方において政治的であった、それ故わたしたち自身も政治的な決断の中に生きることが求められているのです。無関心とか事なかれ主義や、その時々の権力に身を委ねたりおもねったりするあり方は、政治的権力に飲み込まれてしまう危険があります。深い祈りは、その誘惑を退けます。主イエスも伝道活動を始めるとき、その悪魔の誘惑の呼び声と対峙し、勝利したのです(たとえばルカ4:1-13)。ですから、今一度、主イエスの誘惑に打ち勝った姿から学びつつ、わたしたち自身に生きて働く信仰を求め、権力からの誘惑を退け、祈りつつ歩んでいきましょう。
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