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2017年4月

2017年4月30日 (日)

ヤコブの手紙 1章19~27節 「神の言葉の実践」

 ヤコブの手紙は、欲望なのか神なのか、どちらに従うのかと二者択一を迫っています。これは問われて正しい答を出すのは優しいです。この場で問われて欲望を選ぶと明言する人はいないでしょう。しかし、一歩教会を出た時も同じように答えられるのでしょうか、これが問われているのです。この手紙によれば、人間は元々良きものとして造られ神と向かい合って生きるよう求められているのですが、人間の中にあるところの欲望がそそのかすので道からそれてしまうというのです。「自由をもたらす完全な律法」とは「御言葉」なのです。ここでは、人間が造られたときに「心に植え付けられた」と理解されています。ただ「自由をもたらす完全な律法」とヤコブの手紙は言う時には、祭儀律法ではなくて神の喜ぶところの人間同士の関係のことを表わしています。すなわち、「御言葉を行う人になりなさい」という促しにつながってきます。
 これは正解を答えるのは優しいけれども実行するのは難しい問いです。分かっているけれどやめられない感覚です(ここでクレイジーキャッツの「スーダラ節」を思い起こしてほしい)。頭で分かることと行動とのズレの問題があるのです。
 これが教会の信仰のあり方の中で起こっているので、今一度神の前で礼拝と言う形の中で自分の今のあり方が神から見て「御言葉を行う人になりなさい」に生きているのかが問われているのです。これを真正面から受け止めているのでしょうか。キリスト教の言葉感覚の中で良いこと、正しいことを頭で分かっているけれども身体、生活がついていってないのではないでしょうか。「自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。」(1:26)にあるように、自分の宗教性が正しいと思っても、「神の義」をないがしろにしてしまう「怒り」に埋もれてしまうのです。「みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です」(27節)という具体が失われていくのです。「御言葉」の具体に生きているかが問われているのです。そのために、礼拝の中で信仰者としての<わたし><わたしたち>を自己吟味することが大切なのです。
 イエス・キリストの生き方、死に方、よみがえり方から倣って生きることが求められているのです。21節には「この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます」とあります。「心に植え付けられた」ところの神に喜ばれる生き方を、今の丸ごとの存在として証しに生きること、ここに中心があるのです。「救うことができます」は「このような人は、その行いによって幸せになります」(1:25)とつながってきます。その人が、「御言葉を行う人になりなさい」との促しに導かれ、神に守られ祝福された生き方の中で今の<いのち>の充実を喜んで受け止めることこそが、今日の聖書がわたしたちに語りかけている事柄なのです。ここから他者の<いのち>につながっていくことに対して開かれていることをご一緒に確認したいと願っています。

2017年4月23日 (日)

コリントの信徒への手紙一 12章27節

 今日の聖書は、2017年度の総会のためにテーマとして選んだ1節です。この聖句を受けて自覚をもって歩むことができればと願っています。そこで2017年度上大岡教会活動基本方針の前文の一部を引用します。
 【わたしたちは教会がこの世において暫定的であると同時に具体的であるキリストの体として存在していると考えています。教会には、イエス・キリストの呼びかけに応え、信じ従う使命と責任が与えられています。礼拝という神への奉仕と、礼拝から派遣されて向かう他者への奉仕の業との往復の中で、証の生活に生きるのです。インマヌエル(神はわたしたちと共にいる)の事実と十字架の出来事に支えられつつ、新しい年度への決意を新たにしたいと願います。】
 教会を<からだ>として説くのはパウロやパウロの影響下で書かれた手紙に表れています。教会員それぞれが<からだ>の部分としての役割などの奉仕を通して主イエスを証ししながら歩むことが述べられており、そのあり方において優劣は問われるべきではないと考えられています。
 このとき、わたしたちがイメージしがちなのは、いわゆる「健康体」であったり、極端な場合はアスリートのように鍛え抜かれた<からだ>としての理想像ではないでしょうか。しかし、パウロが教会を<からだ>として述べた根拠はパウロ自身の<からだ>のあり方から理解すべきだと思います。彼は周りの人から見て分かる病気があったと書かれてありますし、テント職人としての職業病に悩まされてもいたでしょう。パウロは、あちこちに病や痛みを抱えたままの<からだ>をもって教会の今を問い続けたのではないでしょうか。
 何故パウロは、そのように理解することができたのか。それは十字架の歩みにおける主イエス・キリストの痛めつけられ、辱められた<からだ>と関係があります。ヨハネ福音書によれば、復活の主イエスの<からだ>の手足には釘跡があり、わき腹には槍で刺された傷があるのです。
 この主イエスの<からだ>から理解されたパウロの<からだ>理解に従って教会論を捉え返してくならば、わたしたちの教会が弱さや破れをもった、今あるがままで具体的なキリストの<からだ>として存在していることを祝福として理解することができるのです。
 このような意味において、わたしたちは具体的な主イエス・キリストの<からだ>としての共同性が整えられていくのです。感謝すべきことです。だからこそ「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」との御言葉に信をおくことができるのです。

2017年4月16日 (日)

ヨハネによる福音書 20章11~18節 「よみがえり」

 主イエス・キリストは十字架にかけられ殺されてしまいました。生前のイエスとの出会いによって生き直しの経験が起こされた人たちが大勢いました。ローマに支配されたユダヤ社会の網の目のように覆われた差別社会の中にあっては、自己尊厳を保ちながら胸を張って生きることが困難な人たちがいたからです。いわゆる「罪人」と断罪された人たちには基本的人権が与えられていなかったのです。
 親しい者の死の出来事に対して、ただただ泣くことしかできないという経験は多くの方がお持ちだと思います。生前のイエスがマグダラのマリアにとって、大切な人であったことは否定できません。その亡骸すらなくなっていたのです。空の墓でマリアは泣いています。もう一度確かめたいと思ったのでしょうか、腰をかがめて覗きこみました。そこには、白い衣を着た二人の天使が本来イエスの亡骸の頭と足のあるべき所に座っていたのです。何故泣いているのかという問いに対して「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」と答えるしかありませんでした。
 マリアは、この場面で2回振り向いているのですが、1回目と2回目では決定的な違いがあります。1回目は、振り返ってイエスの姿を見たけれども「何故泣いているのか」と問うたその人を園丁だと思っています。しかし、2>回目では、それはイエスがマリアの名前を呼ぶことによって、マリアはイエスがイエスだと理解できた、と記されています。名前を呼ぶことはただ単に固有名詞を指し示すという意味に留まらないのです。とりわけ、ヨハネによる福音書の中では言葉には力があると理解されています。イエスが呼びかけの言葉を発するとき、何事かが起こるのです。他の箇所を参照すると、たとえばラザロのよみがえりの物語です(11章を参照)。ベタニヤのマリアとマルタの兄弟のラザロが死んだけれども、イエスに呼びかけられてラザロは生き返ったという記事です。
 イエスの呼びかけの言葉は、呼びかけられた人の心の奥底に響くのです。語られた名前が、その人を表わす記号のようなものではなくて、その人の丸ごとのいのち、全人格、その人の存在の全面的な肯定なのだということです。この主イエスによって名前の語りかけを受けた人の中で、今生かされてあるいのちの祝福への感謝として共鳴が起こるということです。主イエスの語る言葉によって何物にも代えられない全人格の交流が起こるというのです。ここに、主イエスの復活に与る生き方が示されるのです。マリアと呼ばれた一人の女性は、主イエスの呼びかけに共鳴することで生前の交わりを今のこととして体験し、そのような生き方に招かれていることを知るのです。

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