« マタイによる福音書 17章1~13節 「主の変容」 | トップページ | コリントの信徒への手紙一 12章27節 »

2017年4月16日 (日)

ヨハネによる福音書 20章11~18節 「よみがえり」

 主イエス・キリストは十字架にかけられ殺されてしまいました。生前のイエスとの出会いによって生き直しの経験が起こされた人たちが大勢いました。ローマに支配されたユダヤ社会の網の目のように覆われた差別社会の中にあっては、自己尊厳を保ちながら胸を張って生きることが困難な人たちがいたからです。いわゆる「罪人」と断罪された人たちには基本的人権が与えられていなかったのです。
 親しい者の死の出来事に対して、ただただ泣くことしかできないという経験は多くの方がお持ちだと思います。生前のイエスがマグダラのマリアにとって、大切な人であったことは否定できません。その亡骸すらなくなっていたのです。空の墓でマリアは泣いています。もう一度確かめたいと思ったのでしょうか、腰をかがめて覗きこみました。そこには、白い衣を着た二人の天使が本来イエスの亡骸の頭と足のあるべき所に座っていたのです。何故泣いているのかという問いに対して「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」と答えるしかありませんでした。
 マリアは、この場面で2回振り向いているのですが、1回目と2回目では決定的な違いがあります。1回目は、振り返ってイエスの姿を見たけれども「何故泣いているのか」と問うたその人を園丁だと思っています。しかし、2>回目では、それはイエスがマリアの名前を呼ぶことによって、マリアはイエスがイエスだと理解できた、と記されています。名前を呼ぶことはただ単に固有名詞を指し示すという意味に留まらないのです。とりわけ、ヨハネによる福音書の中では言葉には力があると理解されています。イエスが呼びかけの言葉を発するとき、何事かが起こるのです。他の箇所を参照すると、たとえばラザロのよみがえりの物語です(11章を参照)。ベタニヤのマリアとマルタの兄弟のラザロが死んだけれども、イエスに呼びかけられてラザロは生き返ったという記事です。
 イエスの呼びかけの言葉は、呼びかけられた人の心の奥底に響くのです。語られた名前が、その人を表わす記号のようなものではなくて、その人の丸ごとのいのち、全人格、その人の存在の全面的な肯定なのだということです。この主イエスによって名前の語りかけを受けた人の中で、今生かされてあるいのちの祝福への感謝として共鳴が起こるということです。主イエスの語る言葉によって何物にも代えられない全人格の交流が起こるというのです。ここに、主イエスの復活に与る生き方が示されるのです。マリアと呼ばれた一人の女性は、主イエスの呼びかけに共鳴することで生前の交わりを今のこととして体験し、そのような生き方に招かれていることを知るのです。

« マタイによる福音書 17章1~13節 「主の変容」 | トップページ | コリントの信徒への手紙一 12章27節 »

ヨハネによる福音書」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ヨハネによる福音書 20章11~18節 「よみがえり」:

« マタイによる福音書 17章1~13節 「主の変容」 | トップページ | コリントの信徒への手紙一 12章27節 »

無料ブログはココログ