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2017年4月23日 (日)

コリントの信徒への手紙一 12章27節

 今日の聖書は、2017年度の総会のためにテーマとして選んだ1節です。この聖句を受けて自覚をもって歩むことができればと願っています。そこで2017年度上大岡教会活動基本方針の前文の一部を引用します。
 【わたしたちは教会がこの世において暫定的であると同時に具体的であるキリストの体として存在していると考えています。教会には、イエス・キリストの呼びかけに応え、信じ従う使命と責任が与えられています。礼拝という神への奉仕と、礼拝から派遣されて向かう他者への奉仕の業との往復の中で、証の生活に生きるのです。インマヌエル(神はわたしたちと共にいる)の事実と十字架の出来事に支えられつつ、新しい年度への決意を新たにしたいと願います。】
 教会を<からだ>として説くのはパウロやパウロの影響下で書かれた手紙に表れています。教会員それぞれが<からだ>の部分としての役割などの奉仕を通して主イエスを証ししながら歩むことが述べられており、そのあり方において優劣は問われるべきではないと考えられています。
 このとき、わたしたちがイメージしがちなのは、いわゆる「健康体」であったり、極端な場合はアスリートのように鍛え抜かれた<からだ>としての理想像ではないでしょうか。しかし、パウロが教会を<からだ>として述べた根拠はパウロ自身の<からだ>のあり方から理解すべきだと思います。彼は周りの人から見て分かる病気があったと書かれてありますし、テント職人としての職業病に悩まされてもいたでしょう。パウロは、あちこちに病や痛みを抱えたままの<からだ>をもって教会の今を問い続けたのではないでしょうか。
 何故パウロは、そのように理解することができたのか。それは十字架の歩みにおける主イエス・キリストの痛めつけられ、辱められた<からだ>と関係があります。ヨハネ福音書によれば、復活の主イエスの<からだ>の手足には釘跡があり、わき腹には槍で刺された傷があるのです。
 この主イエスの<からだ>から理解されたパウロの<からだ>理解に従って教会論を捉え返してくならば、わたしたちの教会が弱さや破れをもった、今あるがままで具体的なキリストの<からだ>として存在していることを祝福として理解することができるのです。
 このような意味において、わたしたちは具体的な主イエス・キリストの<からだ>としての共同性が整えられていくのです。感謝すべきことです。だからこそ「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」との御言葉に信をおくことができるのです。

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