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2017年3月

2017年3月26日 (日)

マタイによる福音書 17章1~13節 「主の変容」

 ファンタジーの典型的なテーマに「往きて還りし物語」があります。主人公が別の世界に行き、成長して帰ってくるというものです。読み手は追体験することによって自分の中で何かが変わるという体験をすることができます。
 今日の聖書もこの「往きて還りし物語」の一つのパターンがあるのではなかろうかと思います。山に上って下りてくるというのも、これも「往きて還りし物語」ではないでしょうか。そこで何が起こっているのか、が問題なのです。
 山は宗教的・神秘的なものと結びつきやすい場所です。イスラエルの宗教においてもそうです。旧約において山は、神の言葉がそこで語られ、聞かれるという場なのです。律法の代表者モーセと預言者の代表者エリヤも山で神の言葉に触れ、語りかけを受けています。ここではモーセとエリヤがいて、栄光に輝くイエス・キリストの姿があります。そこに、モーセとエリヤ、律法と預言者の代表者それぞれ、彼らを遥かに凌ぐ形で唯一残ったのがイエス・キリストの栄光なのだということです。マタイ福音書の場合は、かつてのイスラエルの伝統を踏まえて、山を教会という風に読み変えることができると思います。ないしはイエスが言葉を語りそこに聞く弟子たちのいる場と(マタイの場合だけ、他の福音書には適用できません)。たとえば、山上の説教(5~7章)も復活後の「大宣教命令」(28:16-20も山でイエスが教えられ、弟子たちに向かって語られたという場です。また、1匹と99匹の羊の話ではマタイの場合(18:10-14)は99を山に残しておくのです。つまり、安全である教会としての山に99を確保しておいて、そこから迷い出た羊を探して連れ戻すという発想になるわけです。
 ペトロは山の上での栄光に留まりたい、栄光の場にいることが素晴らしいことなのだと言うのですが、違います。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」とイエス・キリストに聞いていくことが重要だというのです。「聞け」という促しの言葉の根拠が「起きなさい。恐れることはない。」(17:7)なのです。ファンタジーの「往きて還りし物語」に倣えば、山の上ったペトロは成長して還っていくのです。
 イエス・キリストの謙遜に学び、地上においてなしていく教会とは何でしょうか。その場とは栄光のキリストが十字架であることを知らされながら、山を下りるようにして教会から送り出されていくところ、そこに教会は生成されるのです。わたしたちが自分たちの場に遣わされていく、そこに本当の教会が生成される、そのような意味においてわたしたちは今日の聖書から知らされるのは、教会というのはただ単に山に上るようにして集まってきさえすればそれでよいということでは全くなくて、むしろ同時にイエス・キリストの祝福において散らされていく、送り出されていく、その使命を与えられて派遣されていく、そこに教会が集められることと散らされることの同時性において教会は成立するのだということを忘れてはならないのです。

2017年3月19日 (日)

マタイによる福音書 16章13~28節 「受難の予告」

 17節から19節はマタイ福音書だけに含まれるイエスの言葉です。いわゆる「鍵の権能」と呼ばれる記事です。これをもとにしてカトリック教会では、教会というものが天上と地上をつなぐ要として機能していくという風に理解されてきたわけです。教会というものの代表者であるペトロは、神の国の力をこの地上で受け止め、そしてこの世を生きることによって神の国に対して栄光を現すような仕方で応答していく生き方ができるということです。ここでのペトロとは、教会の指導者というよりもキリスト者全般として読んだ方がよいでしょう。つまり、全面的に肯定されているペトロのいのちというのは、これはただ単にペトロに閉ざされたことではなくて、イエス・キリストを信じる者はすでに無条件にそうなんだということです。この世にあって神の国を生き、神の国に応答しながらこの世を生きることができる存在なのだということをまず語るのです。その上で、受難予告において主イエスからペトロが非難されます(16:22-28)。
 「サタン、引き下がれ」と悪魔呼ばわりされていますが、事前の肯定のあるなしで言葉の持つ方向性が違ってきます。肯定なしに悪魔だと言えば、地獄へ落ちろという発想になります。肯定してからサタン呼ばわりするのなら、批判は建設的なものであり、その根拠がイエス・キリストの十字架への道行きなのだということです。まず認められているからこそイエスの批判を受け止めることができる、そして歩んでいく道行きがイエス・キリストの十字架への道行きにつらなっていくことなのだということです。
 肯定を前提とした批判を受け、批判に相応しく自分を捨てていく、そして自分の十字架を負っていく仕方でイエス・キリストに従っていく道が備えられているのだということです。福音書を読んでいく中で読み手は、このペトロは実はわたしであったと読めるようになり、いわば赦された罪人としてのキリスト者の生涯ないしは生き方というものに自分が包まれていることを確認できるのです。
 イエスはペトロを岩と呼び、その上に教会を建てると言います。一方で「サタン、引き下がれ」と言い、邪魔する者として非難します。まずペトロに対する全面的で無条件の肯定があるから、「サタン」と言う中にもどこか優しさがあるのです。イエス・キリストご自身が十字架に向かって行かれた、十字架に磔られたという出来事を踏まえているからこそ、すでにイエス・キリストによってなされたところ自己犠牲によって全面的で無条件の肯定がすべての人のいのちに向かっていることを確認しましょう。

2017年3月12日 (日)

マタイによる福音書 12章22~32節 「悪と戦うキリスト」

 主イエス・キリストは、その生涯の活動において悪霊と戦っていかれました。「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(12:28)この言葉を直截に「そうだ」「アーメン」と言える感覚というのは、今生かされてあるのは神の祝福によるのだと実感できることです。古代人の素直な感覚なのでしょう。
 ところが、悪霊から解放された人を喜ぶことなくファリサイ派の人々人たちはこれを妬んだのでした。「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」(12:24)とケチをつけたのです。敵対している奴が人を元気にしてしまうのを見ると「なんだあいつは」となってしまうのです。このように疎外する力、妬む人の眼差しというのは非常に冷酷であり、残酷なものです。
 妬みの眼差しのエネルギーを解き放つことによって成立するところの神の国の在りようというものが今ここにすでに来ているのだと、イエスは言われます。しかし、まだそれは完全なものではないので来るべき日に至るまで悪霊に対する最後の掃討戦、最後の悪あがきをしている悪霊たちに対する戦いが今行われているということです。
 人は毎日感謝し祝福されていて生かされています。神さまありがとうあなたもわたしも一緒にこの時代を生きているのだね、ということを疎外する力一切を悪魔の働き、悪霊の働きと呼んでいいのかもしれません。人が生き生きとワクワクと毎日を過ごせるためには自分一人だけで自己完結するというわけにはいかない。誰かとどこかでつながっているという実感。いのちというのは一人の肉体に閉じ込められたものではなくて、聖霊の交わりと呼んでいいような関係性の中にあるのです。今ここにこうして生きているお互いを喜び合っていられるあり方が「神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」という世界観です。
 この世界観が、あのイエス・キリストの周りで起こった出来事を今のこととして追体験していく場と関係というものを作り上げていくのです。これが、イエス・キリストの導きの中で聖霊の交わりにおいて起こっていくのです。そこに委ねて、この世における構造悪に対する戦いをキリストにあってなしていくようにとの促しが、今日この聖書において語られているのです。
 教会は、イエス・キリストのみがまことの支配者である神の国を信じるのであれば、いのちのつながりの生き生きとしたあり方を戦い取る道への招きに応えていくべきではないしょうか。

2017年3月 5日 (日)

ヤコブの手紙 1章13~18節 「光の源から」

 わたしたちは自由に生きているのでしょうか?「あの時○○を選んでいれば」「もっと若かったら」等無数の幻想「タラレバ」の奴隷になってはいないでしょうか。一時しのぎの自己弁護、適うことのない欲望がここにはあります。この「タラレバ」の価値観の指摘がヤコブの手紙の1:13-15でなされています。
 旧約・ユダヤ教の伝統では、神は試みを与える/与えないという両方の発想があります。ここでは後者、「誘惑」「試み」は人間の中に由来するという考え方です。解決困難な結果におかれている時、その由来を誰かとか何かの「せいにする」ことによって責任回避することへの警告を語っているのです。自分が受けている「誘惑」「試み」が自分の内側に仕組まれた罠としてのプログラムが自動的に働いてしまう結果、解決困難な問題から逃れられなくなるのです。蜘蛛の巣に捕らえられた虫のようにもがいても自由にならず、生きていても生きている実感が得られず死んでいるかのようなところに追い込まれていく「そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます」と表現しているのでしょう。今生きていることが喜びでもなく感謝でもない感覚に陥り、それが不安を呼び起こす。「誘惑」「試み」の現実は14節にあるように自分の欲望としての「タラレバ」の論理の結果なのです。「むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。」
 このような状態の罠から逃れ、脱出していくために16節では「わたしの愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません」との呼びかけによって、自分の中に隠された自動的に動き始める「タラレバ」のプログラムを自覚し、相対化することが大切です。自分の位置を、「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」(1:2)との言葉に向かって整えていくことによって、人生の質を変えていく道筋をヤコブの手紙は伝えたいのです。
 神は「誘惑」「試み」を与えることのない良き方である、これを大前提として自らを整えていく方向性が大切なのだということです。そもそも人は、その良き方の意思によって、つまり「真理の言葉」によって創造されたのだという事実に立ち返ることから初めていけば「タラレバ」の罠から逃れられ、自由になれるという約束です。
 この約束に生きるためには根気と注意力、そして自己相対化が必要です。何故、自分はこのような時にこのように考えてしまうのか、その理由を突き止める必要があるからです。心の中に自分で自分を問う疑問符「?」を常に用意しておく必要があります。
 これはとりもなおさず、主イエスの楽天性に与りながら、今の自分を過去・現在・将来にわたって主イエスに委ねていくことに他なりません。委ねていけば、困難な問題に対して、悩んでいても立ち止まらず前進できる道があるし、迷っていてもゴールできる。わたしたちは、思い違いに惑わされないで感謝と賛美の生き方に招かれているという確信によって支えられていくという信仰の生き方に招かれているのです。

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