マタイによる福音書 17章1~13節 「主の変容」
ファンタジーの典型的なテーマに「往きて還りし物語」があります。主人公が別の世界に行き、成長して帰ってくるというものです。読み手は追体験することによって自分の中で何かが変わるという体験をすることができます。
今日の聖書もこの「往きて還りし物語」の一つのパターンがあるのではなかろうかと思います。山に上って下りてくるというのも、これも「往きて還りし物語」ではないでしょうか。そこで何が起こっているのか、が問題なのです。
山は宗教的・神秘的なものと結びつきやすい場所です。イスラエルの宗教においてもそうです。旧約において山は、神の言葉がそこで語られ、聞かれるという場なのです。律法の代表者モーセと預言者の代表者エリヤも山で神の言葉に触れ、語りかけを受けています。ここではモーセとエリヤがいて、栄光に輝くイエス・キリストの姿があります。そこに、モーセとエリヤ、律法と預言者の代表者それぞれ、彼らを遥かに凌ぐ形で唯一残ったのがイエス・キリストの栄光なのだということです。マタイ福音書の場合は、かつてのイスラエルの伝統を踏まえて、山を教会という風に読み変えることができると思います。ないしはイエスが言葉を語りそこに聞く弟子たちのいる場と(マタイの場合だけ、他の福音書には適用できません)。たとえば、山上の説教(5~7章)も復活後の「大宣教命令」(28:16-20も山でイエスが教えられ、弟子たちに向かって語られたという場です。また、1匹と99匹の羊の話ではマタイの場合(18:10-14)は99を山に残しておくのです。つまり、安全である教会としての山に99を確保しておいて、そこから迷い出た羊を探して連れ戻すという発想になるわけです。
ペトロは山の上での栄光に留まりたい、栄光の場にいることが素晴らしいことなのだと言うのですが、違います。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」とイエス・キリストに聞いていくことが重要だというのです。「聞け」という促しの言葉の根拠が「起きなさい。恐れることはない。」(17:7)なのです。ファンタジーの「往きて還りし物語」に倣えば、山の上ったペトロは成長して還っていくのです。
イエス・キリストの謙遜に学び、地上においてなしていく教会とは何でしょうか。その場とは栄光のキリストが十字架であることを知らされながら、山を下りるようにして教会から送り出されていくところ、そこに教会は生成されるのです。わたしたちが自分たちの場に遣わされていく、そこに本当の教会が生成される、そのような意味においてわたしたちは今日の聖書から知らされるのは、教会というのはただ単に山に上るようにして集まってきさえすればそれでよいということでは全くなくて、むしろ同時にイエス・キリストの祝福において散らされていく、送り出されていく、その使命を与えられて派遣されていく、そこに教会が集められることと散らされることの同時性において教会は成立するのだということを忘れてはならないのです。
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