ヤコブの手紙 1章13~18節 「光の源から」
わたしたちは自由に生きているのでしょうか?「あの時○○を選んでいれば」「もっと若かったら」等無数の幻想「タラレバ」の奴隷になってはいないでしょうか。一時しのぎの自己弁護、適うことのない欲望がここにはあります。この「タラレバ」の価値観の指摘がヤコブの手紙の1:13-15でなされています。
旧約・ユダヤ教の伝統では、神は試みを与える/与えないという両方の発想があります。ここでは後者、「誘惑」「試み」は人間の中に由来するという考え方です。解決困難な結果におかれている時、その由来を誰かとか何かの「せいにする」ことによって責任回避することへの警告を語っているのです。自分が受けている「誘惑」「試み」が自分の内側に仕組まれた罠としてのプログラムが自動的に働いてしまう結果、解決困難な問題から逃れられなくなるのです。蜘蛛の巣に捕らえられた虫のようにもがいても自由にならず、生きていても生きている実感が得られず死んでいるかのようなところに追い込まれていく「そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます」と表現しているのでしょう。今生きていることが喜びでもなく感謝でもない感覚に陥り、それが不安を呼び起こす。「誘惑」「試み」の現実は14節にあるように自分の欲望としての「タラレバ」の論理の結果なのです。「むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。」
このような状態の罠から逃れ、脱出していくために16節では「わたしの愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません」との呼びかけによって、自分の中に隠された自動的に動き始める「タラレバ」のプログラムを自覚し、相対化することが大切です。自分の位置を、「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」(1:2)との言葉に向かって整えていくことによって、人生の質を変えていく道筋をヤコブの手紙は伝えたいのです。
神は「誘惑」「試み」を与えることのない良き方である、これを大前提として自らを整えていく方向性が大切なのだということです。そもそも人は、その良き方の意思によって、つまり「真理の言葉」によって創造されたのだという事実に立ち返ることから初めていけば「タラレバ」の罠から逃れられ、自由になれるという約束です。
この約束に生きるためには根気と注意力、そして自己相対化が必要です。何故、自分はこのような時にこのように考えてしまうのか、その理由を突き止める必要があるからです。心の中に自分で自分を問う疑問符「?」を常に用意しておく必要があります。
これはとりもなおさず、主イエスの楽天性に与りながら、今の自分を過去・現在・将来にわたって主イエスに委ねていくことに他なりません。委ねていけば、困難な問題に対して、悩んでいても立ち止まらず前進できる道があるし、迷っていてもゴールできる。わたしたちは、思い違いに惑わされないで感謝と賛美の生き方に招かれているという確信によって支えられていくという信仰の生き方に招かれているのです。
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