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2017年2月

2017年2月26日 (日)

マタイによる福音書 20章1~16節 「本当のことって何だろう?」

(世界祈祷日合同礼拝)

 ぶどう園の主人は収穫時、臨時雇いの労働者を探しに夜明けとともに広場に行きます。そこには仕事を求める人々が大勢いて、主人は何人か雇います。しかし、まだ人手が足りず、夜明け、午前9時、12時、午後3時、午後5時と出かけていき、その都度雇い入れました。12時間から1時間まで、働いた時間に随分差があります。
 この主人は、朝6時に雇った人たちにだけ、1日1デナリを払うことを約束しています。デナリというお金の単位は、当時の一日の給料の基本だったようです。若干高めですが1万円というところでしょうか。 9時以降は「ふさわしい賃金を払ってやろう」(4節)と曖昧になり、午後5時の労働者に至っては「あなたたちも葡萄園に行きなさい」(7節)と言われるだけです。普通に考えると、最後に呼ばれた人たちは、運良く賃金をもらえたとしてもほんの僅かだという感じを受け取れると思います。
 仕事が終わると、まず1時間しか働かなかった人たちに1デナリが支払われました。これを見た、12時間働いた人々は、長時間働いている自分たちはどれだけ多くのお金をもらえるかと期待していたのでしょう。しかし、同じ金額しかもらえなかったので、文句を言いだしました。もっともなことです。12時間働いた人たちが怒ったのは、主人がずるいことをしたからではありません。1時間しか働かなかった人たちが1万円貰うのを見たとき、彼らは、むしろ喜んだのです。彼らが怒ったのは、もっと貰えるという期待が裏切られたから、主人の気前よさが自分たちには及ばなかったからでした。
 「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたは私と1デナリの約束をしたではないか」(13節)。その通りで、だましたわけではありません。さらに主人は言います「自分のものを自分のしたいようにしてはいけないか」(15節前半)。ここではぶどう園主人の自由な気持ちが言われています。
  「友よ」と諭されるのは、運よく朝から仕事にありつけた人たちです。この人たちは働いた時間の分をもらわないとおかしいという「当たり前」なことを言っているだけなのに、です。しかし、主イエスは、12時間働いた人たちも9時間働いた人たちも6時間働いた人たちも1時間働いた人たちも同じ金額、一日分の給料を払う方なのだというのです。わたしたちが考える「当たり前」と神の「当たり前」は違うのです。主人が最初に雇った人たちは、おそらく、そこにいた人たちの中で、一番元気そうな働き手だったことでしょう。それこそ、「当たり前」に身体が弱かったり、歳を取っていたり、体が不自由だったりする人たちを避けて雇うでしょう。でも、残された人たちも生きていくためのお金は必要なのです。12時間働けるだけの体力を持った人たちが12時間働くのと、1時間しか働く体力のない人が1時間働くのは「体力」から見ると平等なのです。
 今日はフィリピンのことを思いながらの礼拝です。聖書の語りかける主イエスの話は、平等な世界についてです。わたしたちの考える「当たり前」は、お金や力のある人が独り占めする世界を作ってしまう恐れがあるよ、みんなが必要なものを受け取ることのできる世界、それが平等だよ、そう聖書は告げています。

2017年2月12日 (日)

マルコによる福音書 16章1~8節 「再会のキリスト」

 マルコ福音書は16章8節で本来終わっていたというのが定説で、9節以下は後の時代の付け足しです。
 最後が「恐ろしかったからである」では読み手が戸惑ってしまうのは当然です。実は、この後「ガル」という単語が続いているのですが、ここでは訳されていません。他の翻訳でも省略されています。色々な使われ方をする軽い意味の言葉ですが、ここでは「なぜならば」とか「というのは」という理由や根拠を述べる言葉として使われています。あえて訳してみると「恐ろしかったからである。というのは」という感じでしょうか。
 このガルという言葉で結ぶ終わり方はマルコ福音書の循環構造だというのが、現代の日本の聖書学者の間では共通理解に至りつつあると思います。すなわち、「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」(16:7)、「というのは‥‥」と、もう一度マルコ福音書を最初から読み直すことが促されているということです。再読によってマルコ福音書の物語が、体験として読み手の側に生じてくるのだということです。1章のイエスに出会った記事へと帰っていくようにと促す中にこそ、すなわちガリラヤでの生前のイエスのもとに行くことによってこそ、復活のキリストに再会できるのだ、という約束が白い長い衣を着た若者によって語られているのです。
 ガリラヤはエルサレムから見ると広範な被差別地域です。国内植民地のような扱いを受けていたと想像できます。おそらくそこに生きる人々は、不当な苦しみを強いられつつ暮らしていたのでしょう。だから、イエスは、痛めつけられ、傷つけられたいのちを、本来の楽天性に支えられた信仰でもって全面的・無条件に肯定するのです。そして、癒し、励まし、勇気づけ、助け、共に食事するようにして祝福する歩みをガリラヤで始めたのです。
 イエスが先立ち導くガリラヤとは現代社会においては何処になるのでしょうか。社会の歪みによって傷つき、倒れ、呻く人々のいるところ、それらはすべて現代のガリラヤです。拡大解釈すれば、わたしたちが日ごとに苦労しながらも何とか支えられながら生きている今という日常をガリラヤと呼んでも、あながち外れではないのです。そのようなわたしたちの現場、生きるべき場にこそ、再会のキリストが復活者として待っていてくださるのだという約束が語られているのです。
 わたしたちが遣わされていく現場、そこにおいて復活のキリストに再会し、出会いと出会い損ねを続けながらも、共に主イエスをキリストとして信じ従う道が備えられているのです。今日の聖書は、わたしたちに招きの言葉を語っているのです。

2017年2月 5日 (日)

マルコによる福音書 15章42~47節 「イエスの墓の前で」

 死はいのちの尊さを問う意味では厳粛なものでしょうし、その突然さという意味からすれば暴力的なものでもあると言えるかと思います。その死を見つめる人々の眼差しは、死んだ人の生き方を捉えかえし、理解したいという願いと不条理に対する戸惑いや恐怖など様々な思いが混ざった複雑なものだと言えます。
 とりわけ親しい者の死や死に向かう場に居合わせている時には、冷静でいられるはずがありません。何故だ、という問い。自分の無力さ。絶望。あの時こうすればよかったのに、というような後悔の念。悔しさ。情けなさ。言葉に表すことのできない思いや、言葉にすると嘘になってしまうような気持。このような思いが時間の経過と共に整えられていく途上に喪、弔う側の仕事や務めが生じます。
 死とは何か。この問いを処刑から埋葬に至るイエスの死から考えたいと思います。この場面においてペトロも(14:54)、女弟子たちも(15:40)「遠く」としか呼べない信仰的な距離のあり方を示しています。ゲッセマネでのイエスの逮捕に際し逃げ出したペトロたち男弟子と、十字架への道行きと処刑、墓へ納められるところまでを見届ける女弟子との対比が書かれていますが、いずれにしてもイエスに対しては「遠く」であったことにおいては同じです。弟子たちも主イエスの死を直視することができない限界の中にあったのです。
 十字架刑は痛みや苦しみを長時間にわたって与え、できるだけ死の苦しみを味わわせる残虐な処刑です。主イエスは十字架刑によって確実に殺されました。使徒信条の「死にて葬られ」のくだりは、この主イエスの死の事実を確認するものです。本当は死んでいなくて、死んだように見えただけ、という異なる教えの誘惑に巻き込まれないためです。
 パウロはローマの信徒への手紙で次のように語ります。「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。(ローマ3:24-26)」
 主イエスの十字架上での死の出来事から埋葬の記事がわたしたちに語るのは、主イエスの死をしっかりと見つめよ、ということです。その上で主イエスの生前の生涯を思い起こすのです。わたしたちが死ぬべき存在である事実を踏まえながら、イエスの死から、今のわたしたちのいのちが支えられていることを思い起こすのです。神である主イエスが、すでに人間の死を死んでくださったのだから、わたしたちの死は恐れる必要がないのです。
 主イエスの死から埋葬において示されるように、まことの人となられ、死ぬべき存在としてささげられた生涯において、わたしたちのいのちも死も守りのうちにあることを確信することへの招きが、主イエスの墓において表わされているのです。

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