« マルコによる福音書 15章42~47節 「イエスの墓の前で」 | トップページ | マタイによる福音書 20章1~16節 「本当のことって何だろう?」 »

2017年2月12日 (日)

マルコによる福音書 16章1~8節 「再会のキリスト」

 マルコ福音書は16章8節で本来終わっていたというのが定説で、9節以下は後の時代の付け足しです。
 最後が「恐ろしかったからである」では読み手が戸惑ってしまうのは当然です。実は、この後「ガル」という単語が続いているのですが、ここでは訳されていません。他の翻訳でも省略されています。色々な使われ方をする軽い意味の言葉ですが、ここでは「なぜならば」とか「というのは」という理由や根拠を述べる言葉として使われています。あえて訳してみると「恐ろしかったからである。というのは」という感じでしょうか。
 このガルという言葉で結ぶ終わり方はマルコ福音書の循環構造だというのが、現代の日本の聖書学者の間では共通理解に至りつつあると思います。すなわち、「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」(16:7)、「というのは‥‥」と、もう一度マルコ福音書を最初から読み直すことが促されているということです。再読によってマルコ福音書の物語が、体験として読み手の側に生じてくるのだということです。1章のイエスに出会った記事へと帰っていくようにと促す中にこそ、すなわちガリラヤでの生前のイエスのもとに行くことによってこそ、復活のキリストに再会できるのだ、という約束が白い長い衣を着た若者によって語られているのです。
 ガリラヤはエルサレムから見ると広範な被差別地域です。国内植民地のような扱いを受けていたと想像できます。おそらくそこに生きる人々は、不当な苦しみを強いられつつ暮らしていたのでしょう。だから、イエスは、痛めつけられ、傷つけられたいのちを、本来の楽天性に支えられた信仰でもって全面的・無条件に肯定するのです。そして、癒し、励まし、勇気づけ、助け、共に食事するようにして祝福する歩みをガリラヤで始めたのです。
 イエスが先立ち導くガリラヤとは現代社会においては何処になるのでしょうか。社会の歪みによって傷つき、倒れ、呻く人々のいるところ、それらはすべて現代のガリラヤです。拡大解釈すれば、わたしたちが日ごとに苦労しながらも何とか支えられながら生きている今という日常をガリラヤと呼んでも、あながち外れではないのです。そのようなわたしたちの現場、生きるべき場にこそ、再会のキリストが復活者として待っていてくださるのだという約束が語られているのです。
 わたしたちが遣わされていく現場、そこにおいて復活のキリストに再会し、出会いと出会い損ねを続けながらも、共に主イエスをキリストとして信じ従う道が備えられているのです。今日の聖書は、わたしたちに招きの言葉を語っているのです。

« マルコによる福音書 15章42~47節 「イエスの墓の前で」 | トップページ | マタイによる福音書 20章1~16節 「本当のことって何だろう?」 »

マルコによる福音書」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: マルコによる福音書 16章1~8節 「再会のキリスト」:

« マルコによる福音書 15章42~47節 「イエスの墓の前で」 | トップページ | マタイによる福音書 20章1~16節 「本当のことって何だろう?」 »

無料ブログはココログ