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2017年2月 5日 (日)

マルコによる福音書 15章42~47節 「イエスの墓の前で」

 死はいのちの尊さを問う意味では厳粛なものでしょうし、その突然さという意味からすれば暴力的なものでもあると言えるかと思います。その死を見つめる人々の眼差しは、死んだ人の生き方を捉えかえし、理解したいという願いと不条理に対する戸惑いや恐怖など様々な思いが混ざった複雑なものだと言えます。
 とりわけ親しい者の死や死に向かう場に居合わせている時には、冷静でいられるはずがありません。何故だ、という問い。自分の無力さ。絶望。あの時こうすればよかったのに、というような後悔の念。悔しさ。情けなさ。言葉に表すことのできない思いや、言葉にすると嘘になってしまうような気持。このような思いが時間の経過と共に整えられていく途上に喪、弔う側の仕事や務めが生じます。
 死とは何か。この問いを処刑から埋葬に至るイエスの死から考えたいと思います。この場面においてペトロも(14:54)、女弟子たちも(15:40)「遠く」としか呼べない信仰的な距離のあり方を示しています。ゲッセマネでのイエスの逮捕に際し逃げ出したペトロたち男弟子と、十字架への道行きと処刑、墓へ納められるところまでを見届ける女弟子との対比が書かれていますが、いずれにしてもイエスに対しては「遠く」であったことにおいては同じです。弟子たちも主イエスの死を直視することができない限界の中にあったのです。
 十字架刑は痛みや苦しみを長時間にわたって与え、できるだけ死の苦しみを味わわせる残虐な処刑です。主イエスは十字架刑によって確実に殺されました。使徒信条の「死にて葬られ」のくだりは、この主イエスの死の事実を確認するものです。本当は死んでいなくて、死んだように見えただけ、という異なる教えの誘惑に巻き込まれないためです。
 パウロはローマの信徒への手紙で次のように語ります。「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。(ローマ3:24-26)」
 主イエスの十字架上での死の出来事から埋葬の記事がわたしたちに語るのは、主イエスの死をしっかりと見つめよ、ということです。その上で主イエスの生前の生涯を思い起こすのです。わたしたちが死ぬべき存在である事実を踏まえながら、イエスの死から、今のわたしたちのいのちが支えられていることを思い起こすのです。神である主イエスが、すでに人間の死を死んでくださったのだから、わたしたちの死は恐れる必要がないのです。
 主イエスの死から埋葬において示されるように、まことの人となられ、死ぬべき存在としてささげられた生涯において、わたしたちのいのちも死も守りのうちにあることを確信することへの招きが、主イエスの墓において表わされているのです。

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