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2017年1月15日 (日)

マルコによる福音書 15章1~20節 「イエスの判決」

 主イエスの裁判は二段階に行われました。ユダヤ教の最高法院による予備審問とピラトの邸宅での本審問です。いずれも死刑判決ありき、の裁判です。彼らの主イエスに対する殺意は活動の初期からあったのです。主イエスの癒しなどの活動を見聞きしたことを踏まえて、3:6に「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた」とあるとおりです。主イエスの活動の何が、十字架に磔けるため「罪あり」とされたのでしょうか。当時、武力による支配構造の中で差別と格差を正当化することで社会のバランスを保つ「ローマの平和」と呼ばれる時代に楔を打ち込む活動であり、支配者層にとって邪魔者は排除するという至上目的があったためです。人が人として生きるための尊厳を取り戻して胸を張って生きる生き方へと導き招く主イエスは、生かしておくには余りにも目障りだったからです。十字架。それはユダヤ教からすれば神に呪われたあり方です(申命記21:23)。ローマからすれば反逆者・奴隷を辱める、軽蔑の極みだったのです。
 教会は主イエスを罪なきにもかかわらず殺されたと考えています。主イエスの活動は「その人をその人として」(徳永五郎)生かす者であり、しかしだからこそユダヤ教からもローマの支配者層からは許しがたい犯罪として理解されたのです。ですから冤罪ではありません。死刑判決は権力の意思なのです。
 この主イエスに下された死刑判決、しかも十字架刑をどのように理解したらよいのでしょうか。キリスト者はキリスト者であるがゆえに苦難を受けることがある。そのときに耐えうる根拠が示されているということです。苦しみにおいて共にいてくださるという理解です。ここにキリスト者の苦難における希望があるのです。どのような苦難に遭遇しても十字架に磔られたままのキリストが共にいてくださり、身代わりとして、また代理としていてくださるがゆえに慰めが与えられているという信頼に生きる道への招きがあるのです。換言すれば、この慰めに支えられ、権力におもねることなく「主の道を歩め」という促しでもあります。
 イザヤ書53章における苦難のしもべの姿がここには描かれているのです。他者を生かすために捨てられていく姿があります。イザヤ書を踏まえ、十字架の出来事によって示される方向性をパウロは語ります。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)と。ここに、わたしたちが主イエスの十字架から示される生の方向性が確かな事実として示されているのです。

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