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2017年1月

2017年1月29日 (日)

マルコによる福音書 15章33~41節 「本当に、この人は神の子だった」

 「しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。」(15:37)とあります。イエスが自身にとって全く不可解であり絶望である死を迎えたのです。ここには神は不在なのです。
 ゲッセマネでイエスは「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(13:36)と祈ります。これはイエスが洗礼を受けた時の神の言葉「わたしの心に適う者」(1:11)を受けています。このゲッセマネでの祈りの前でも神は不在でした。しかし、イエスの信仰を否定することはできないし、基本的なところでの楽天性を保持していたかもしれません。直接の神の答はないとしても。
 わたしたちもまた、不可解な現実を生きています。この理解を超えた現実の中で、イエス・キリストの十字架での神の不在に意味を見出していく必要があろうかと思います。
 絶望のうちに息を引き取るイエス・キリストの姿をどう読むか。ディートリッヒ・ボンヘッファーの獄中書簡から、いくつかの文章を紹介したいと思います。人間というのは神の不在の前で生きる。不在とは神が存在しないことではない。不在において神は存在している。そのような神に希望を抱く生き方の現代人としての理解をボンヘッファーは思索していたのです。
 「そしてぼくたちは、宗教的行為によってキリスト者となるのではなく、この世の苦しみの中で神の苦しみに与ることによ ってキリスト者となるのである」
 「神は自身をこの世から十字架へと追いやる。神はこの世においては無力で弱い。しかし、神はまさにそのようにして、しかもそのようにしてのみ、僕たちのもとにおり、また僕たちを助けるのである」
 「聖書は、人間に神の無力と苦難とを示す。そしてこの苦しむ神こそが、人間に助けを与えることができる神なのである」
 イエス・キリストの絶叫する神の姿は、わたしたちが目をそらさず、じっくりと見つめていくならば、共に苦しみに与る仕方で他者と共に生きる、苦しみにある友と共に生きる、そのような道があると示すものであるでしょう。神の不在としか言いようのない現実を目の当たりにしながらも、あえて不在である神に対して苦難の祈りをささげていくイエスの十字架上の姿から、わたしたちはつながっていこうとする教会の形成において、他者のための存在、他者と共に生きる生き方に向かって招かれているのではないでしょうか。イエスの絶叫からわたしたちが読み取るべきは、今、神の不在を実感せざるを得ない中にあって、それでも「神の前で、神と共に、神なしで生きる」と語るボンヘッファーの道行きにつらなることによってのみ、わたしたちは現代社会において教会として十字架を生きる道が確かにある、ということです。

2017年1月22日 (日)

マルコによる福音書 15章21~32節 「罵りの中で」

 本当に神の子であるならば、今すぐ磔られている十字架から降りてみろと罵られます。自分で自分を救えないくせにキリストなのか、いう指摘です。全能のゆえに十字架から降りることができたかもしれません。しあし、あえて十字架から降りて自分を救うということをしなかったのです。もし、ここで自分を救うようにして十字架から主イエスが降りていたら、英雄として崇められたかもしれません。けれども、それではキリストではないのです。
 主イエス・キリストがまことの人となったという受肉の出来事は、わたしたちの友となり仲間となることです。わたしたちと同じように、鞭打たれれば血を流すのです。鞭打たれた後、ゴルゴタまで十字架の横木を担がされるけれども、担ぎきれなかったのです(15:21)。かつて主イエスは「自分の十字架を負って従うように」と語りかけたのに、語った本人ができなかったことを知らされます。それほどまでに自分を救えない人間としてイエス・キリストはここにいます。自分を救えないということは、人間としての限界の中に自らを置くという神ご自身の決断がここにあるのです。
 誰かが一緒にいることによって初めて、その人が一人の人としていることが認められていくという関係性、ここにこそ神にイメージはあるのです。全く無力なまま、そして自分を救えない姿をさらけ出してです。自分の十字架さえも負えない弱さの中に留まることによって、実は人間のあり方というのは誰か他の人とつながることであると示し、イエス・キリストは無力な姿で神の全能というものを示そうとしているのです。その在りようをパウロは「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。」(Ⅱコリント13:4)と語りました。
 自分を救えない姿で、主イエスが弱さをさらけ出すことで示されているのは、神の力の表れです。自分で自分を救うことができない人間の姿をもっているからこそ、他者と呼ばれる誰かと共に生きていく仕方以外に生きていく道はないし、そこにこそ共に生くというという促しが示されるのです。
 磔られているキリストが、ここで彼らが言うように十字架から降りてみろと言われて降りるならば、それはキリストではないのです。磔られたまま、その苦しみのただなかに、痛みのただなかにおいて、だから共に生きていく道行きを、聖書を読む者に訴え、今のイエス・キリストの弟子たちが新しく支え合う関係を作り出していくことができるようになっていくことへの促しが語られているのです。

2017年1月15日 (日)

マルコによる福音書 15章1~20節 「イエスの判決」

 主イエスの裁判は二段階に行われました。ユダヤ教の最高法院による予備審問とピラトの邸宅での本審問です。いずれも死刑判決ありき、の裁判です。彼らの主イエスに対する殺意は活動の初期からあったのです。主イエスの癒しなどの活動を見聞きしたことを踏まえて、3:6に「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた」とあるとおりです。主イエスの活動の何が、十字架に磔けるため「罪あり」とされたのでしょうか。当時、武力による支配構造の中で差別と格差を正当化することで社会のバランスを保つ「ローマの平和」と呼ばれる時代に楔を打ち込む活動であり、支配者層にとって邪魔者は排除するという至上目的があったためです。人が人として生きるための尊厳を取り戻して胸を張って生きる生き方へと導き招く主イエスは、生かしておくには余りにも目障りだったからです。十字架。それはユダヤ教からすれば神に呪われたあり方です(申命記21:23)。ローマからすれば反逆者・奴隷を辱める、軽蔑の極みだったのです。
 教会は主イエスを罪なきにもかかわらず殺されたと考えています。主イエスの活動は「その人をその人として」(徳永五郎)生かす者であり、しかしだからこそユダヤ教からもローマの支配者層からは許しがたい犯罪として理解されたのです。ですから冤罪ではありません。死刑判決は権力の意思なのです。
 この主イエスに下された死刑判決、しかも十字架刑をどのように理解したらよいのでしょうか。キリスト者はキリスト者であるがゆえに苦難を受けることがある。そのときに耐えうる根拠が示されているということです。苦しみにおいて共にいてくださるという理解です。ここにキリスト者の苦難における希望があるのです。どのような苦難に遭遇しても十字架に磔られたままのキリストが共にいてくださり、身代わりとして、また代理としていてくださるがゆえに慰めが与えられているという信頼に生きる道への招きがあるのです。換言すれば、この慰めに支えられ、権力におもねることなく「主の道を歩め」という促しでもあります。
 イザヤ書53章における苦難のしもべの姿がここには描かれているのです。他者を生かすために捨てられていく姿があります。イザヤ書を踏まえ、十字架の出来事によって示される方向性をパウロは語ります。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)と。ここに、わたしたちが主イエスの十字架から示される生の方向性が確かな事実として示されているのです。

2017年1月 8日 (日)

マルコによる福音書 14章66~72節 「後悔の涙が喜びに向かう時」

 ペトロをはじめとする弟子たちはイエスが実際逮捕されると蜘蛛の子が散らされるように一目散に逃げてしまいました。どこか後ろめたさがあったのでしょうか。ペトロは、イエスが最高法院の予備審問を受け、ピラトの官邸に連れていかれるのをずっと追っていきました。ペトロの中には、かつて一切を捨てて従ってきたし、どんなことがあっても大丈夫だという自信があったはずです。たとえ死に直面するような事態になったとしても、と考えている自分が破れているのです。
 イエスの逮捕から予備審問・本裁判に中でペトロは様子を覗っています。「従う」とは信じて従うことであり、「遠くから」とは神からの心の距離を示します。
 【イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。】(14:30-31)その通りのことが起こったとき、これを思い出してペトロは泣き出したのでした。田川健三訳では「身を投げ出して、泣いた」とあります。そのペトロの涙は何だったのか。あれほど自分はイエスのことを一番分かっていて一人前だと思っていた、自分を自分として成立させているところの存在根拠が破綻したのです。涙の中で認めざるを得ないところに追い込まれ、ただここにあるのは一人の破れた人間の姿です。
 しかし、信仰の物語は終わりません。後悔と懺悔の念であったものが復活の約束の中であとから意味が変えられていくからです。女中や周りの人たちの問いの向こう側にイエスの眼差しがあったことに気が付いてくるのです。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」「この人は、あの人たちの仲間です」「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」これらの言葉を否定として答えたその時の涙を越えていくのです。復活のキリストに応じて自らを引き受けていくことによって、訛りを含めたガリラヤ者として、自分の丸ごとを受け入れていくことへの招きがあるのです。イエス・キリストの愛における眼差しにおいて包み込まれている安心感の中で、もう一度新しい人間として生きていく道に招かれているのだという気付きが起こるのです。そこに教会の、そしてまたキリスト者のあり方が示されているのです。
 このペトロの姿は、わたしでありあなた、そしてわたしたちです。ペトロと何ら変わりがないのです。主に従いきれなかったという悲しみや後悔や懺悔を抱え、涙を流し、しかしそれはあの時流されたペトロの涙と同様に、復活の約束において、喜びに向かう感謝の涙に変えられていくのです。

2017年1月 1日 (日)

詩編100:1-5 「教会は歌う」

 「歌わない教会は教会ではない」と著名な神学者は言いました。心を合わせ歌う教会。このことをクリスマスの祝福によって迎えた新年に確認しておきたいと思います。
 歌うことには力があります。「【賛歌。感謝のために。】全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。喜び祝い、主に仕え/喜び歌って御前に進み出よ。」( 1-2節)まず神の招きがあり、その応答としてわたしたちは集い歌うのです。そして「感謝の歌をうたって主の門に進み/賛美の歌をうたって主の庭に入れ。感謝をささげ、御名をたたえよ。主は恵み深く、慈しみはとこしえに/主の真実は代々に及ぶ。」(4-5節)と主に信頼しつつ、歌う民としての教会として整えられることを願います。
 ここで歌われている神は、「知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民/主に養われる羊の群れ。」(3節)とあるように羊飼いのイメージです(詩編23参照)。しかし旧約の時代から新約の時代に羊飼いの位置づけは逆転してしまいました。王や預言者、指導者としてのあり方から虐げられ差別される者へと。
 ルカ福音書によれば、その虐げられる者の代表としての羊飼いたちに、最初のクリスマスの賛美が聞かれました「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ」(ルカ2:14)。これはかつての出来事にとどまらず、今のわたしたち、地上での応答へと導かれるものであると理解したいのです。わたしたちはクリスマスの祝福に守られていることを信じます。また同時に天使の歌声も。
 ルカのクリスマスの記事を読むと歌に溢れています。天使たちの歌声に応答する羊飼いたちの歌(2:20)、マリアの歌(1:46-55)もザカリヤ(1:68-80)の歌。これら聖書から示される歌う教会の方向性は「平和」を求め、祈る心を合わせていくところにこそあります。天使の歌声は、自由を奪われ、抑圧され、差別された人たちが絶望から希望に向かって、自由と解放を求めていくところにあるからです。
 もちろん、歌のもっている力は、悪と闇の勢力も知っています。彼らも歌の力を用いるのです(軍歌だけではなく、かつての八紘一宇の思想を支えるために成立した日本基督教団の諸教会が戦時下に歌った讃美歌を検証すれば分かります)。しかし、いやだからこそ教会は今、天使たちの歌声を信じてできうる限りの声で「地に平和」と歌うのです。世界中で歌われ続けている歌によってつながっていくために。天使の歌声を信じる限り、自由と解放を求める歌声は不滅だと教会は信じるのです。「み心にかなう」ところの「平和」を求める人たちの心は共鳴していくからです。
 わたしたちは歌う教会として歩む決意を今、クリスマスの祝福の中で迎える新年において、共に確認して歩んでいくのです。まことの羊飼いである主イエス・キリストによって導かれる羊の群れとして「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。喜び祝い、主に仕え/喜び歌って御前に進み出よ」(1-2節)との促しに応答していきましょう。

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