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2017年1月22日 (日)

マルコによる福音書 15章21~32節 「罵りの中で」

 本当に神の子であるならば、今すぐ磔られている十字架から降りてみろと罵られます。自分で自分を救えないくせにキリストなのか、いう指摘です。全能のゆえに十字架から降りることができたかもしれません。しあし、あえて十字架から降りて自分を救うということをしなかったのです。もし、ここで自分を救うようにして十字架から主イエスが降りていたら、英雄として崇められたかもしれません。けれども、それではキリストではないのです。
 主イエス・キリストがまことの人となったという受肉の出来事は、わたしたちの友となり仲間となることです。わたしたちと同じように、鞭打たれれば血を流すのです。鞭打たれた後、ゴルゴタまで十字架の横木を担がされるけれども、担ぎきれなかったのです(15:21)。かつて主イエスは「自分の十字架を負って従うように」と語りかけたのに、語った本人ができなかったことを知らされます。それほどまでに自分を救えない人間としてイエス・キリストはここにいます。自分を救えないということは、人間としての限界の中に自らを置くという神ご自身の決断がここにあるのです。
 誰かが一緒にいることによって初めて、その人が一人の人としていることが認められていくという関係性、ここにこそ神にイメージはあるのです。全く無力なまま、そして自分を救えない姿をさらけ出してです。自分の十字架さえも負えない弱さの中に留まることによって、実は人間のあり方というのは誰か他の人とつながることであると示し、イエス・キリストは無力な姿で神の全能というものを示そうとしているのです。その在りようをパウロは「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。」(Ⅱコリント13:4)と語りました。
 自分を救えない姿で、主イエスが弱さをさらけ出すことで示されているのは、神の力の表れです。自分で自分を救うことができない人間の姿をもっているからこそ、他者と呼ばれる誰かと共に生きていく仕方以外に生きていく道はないし、そこにこそ共に生くというという促しが示されるのです。
 磔られているキリストが、ここで彼らが言うように十字架から降りてみろと言われて降りるならば、それはキリストではないのです。磔られたまま、その苦しみのただなかに、痛みのただなかにおいて、だから共に生きていく道行きを、聖書を読む者に訴え、今のイエス・キリストの弟子たちが新しく支え合う関係を作り出していくことができるようになっていくことへの促しが語られているのです。

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