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2017年1月 8日 (日)

マルコによる福音書 14章66~72節 「後悔の涙が喜びに向かう時」

 ペトロをはじめとする弟子たちはイエスが実際逮捕されると蜘蛛の子が散らされるように一目散に逃げてしまいました。どこか後ろめたさがあったのでしょうか。ペトロは、イエスが最高法院の予備審問を受け、ピラトの官邸に連れていかれるのをずっと追っていきました。ペトロの中には、かつて一切を捨てて従ってきたし、どんなことがあっても大丈夫だという自信があったはずです。たとえ死に直面するような事態になったとしても、と考えている自分が破れているのです。
 イエスの逮捕から予備審問・本裁判に中でペトロは様子を覗っています。「従う」とは信じて従うことであり、「遠くから」とは神からの心の距離を示します。
 【イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。】(14:30-31)その通りのことが起こったとき、これを思い出してペトロは泣き出したのでした。田川健三訳では「身を投げ出して、泣いた」とあります。そのペトロの涙は何だったのか。あれほど自分はイエスのことを一番分かっていて一人前だと思っていた、自分を自分として成立させているところの存在根拠が破綻したのです。涙の中で認めざるを得ないところに追い込まれ、ただここにあるのは一人の破れた人間の姿です。
 しかし、信仰の物語は終わりません。後悔と懺悔の念であったものが復活の約束の中であとから意味が変えられていくからです。女中や周りの人たちの問いの向こう側にイエスの眼差しがあったことに気が付いてくるのです。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」「この人は、あの人たちの仲間です」「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」これらの言葉を否定として答えたその時の涙を越えていくのです。復活のキリストに応じて自らを引き受けていくことによって、訛りを含めたガリラヤ者として、自分の丸ごとを受け入れていくことへの招きがあるのです。イエス・キリストの愛における眼差しにおいて包み込まれている安心感の中で、もう一度新しい人間として生きていく道に招かれているのだという気付きが起こるのです。そこに教会の、そしてまたキリスト者のあり方が示されているのです。
 このペトロの姿は、わたしでありあなた、そしてわたしたちです。ペトロと何ら変わりがないのです。主に従いきれなかったという悲しみや後悔や懺悔を抱え、涙を流し、しかしそれはあの時流されたペトロの涙と同様に、復活の約束において、喜びに向かう感謝の涙に変えられていくのです。

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