詩編100:1-5 「教会は歌う」
「歌わない教会は教会ではない」と著名な神学者は言いました。心を合わせ歌う教会。このことをクリスマスの祝福によって迎えた新年に確認しておきたいと思います。
歌うことには力があります。「【賛歌。感謝のために。】全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。喜び祝い、主に仕え/喜び歌って御前に進み出よ。」( 1-2節)まず神の招きがあり、その応答としてわたしたちは集い歌うのです。そして「感謝の歌をうたって主の門に進み/賛美の歌をうたって主の庭に入れ。感謝をささげ、御名をたたえよ。主は恵み深く、慈しみはとこしえに/主の真実は代々に及ぶ。」(4-5節)と主に信頼しつつ、歌う民としての教会として整えられることを願います。
ここで歌われている神は、「知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民/主に養われる羊の群れ。」(3節)とあるように羊飼いのイメージです(詩編23参照)。しかし旧約の時代から新約の時代に羊飼いの位置づけは逆転してしまいました。王や預言者、指導者としてのあり方から虐げられ差別される者へと。
ルカ福音書によれば、その虐げられる者の代表としての羊飼いたちに、最初のクリスマスの賛美が聞かれました「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ」(ルカ2:14)。これはかつての出来事にとどまらず、今のわたしたち、地上での応答へと導かれるものであると理解したいのです。わたしたちはクリスマスの祝福に守られていることを信じます。また同時に天使の歌声も。
ルカのクリスマスの記事を読むと歌に溢れています。天使たちの歌声に応答する羊飼いたちの歌(2:20)、マリアの歌(1:46-55)もザカリヤ(1:68-80)の歌。これら聖書から示される歌う教会の方向性は「平和」を求め、祈る心を合わせていくところにこそあります。天使の歌声は、自由を奪われ、抑圧され、差別された人たちが絶望から希望に向かって、自由と解放を求めていくところにあるからです。
もちろん、歌のもっている力は、悪と闇の勢力も知っています。彼らも歌の力を用いるのです(軍歌だけではなく、かつての八紘一宇の思想を支えるために成立した日本基督教団の諸教会が戦時下に歌った讃美歌を検証すれば分かります)。しかし、いやだからこそ教会は今、天使たちの歌声を信じてできうる限りの声で「地に平和」と歌うのです。世界中で歌われ続けている歌によってつながっていくために。天使の歌声を信じる限り、自由と解放を求める歌声は不滅だと教会は信じるのです。「み心にかなう」ところの「平和」を求める人たちの心は共鳴していくからです。
わたしたちは歌う教会として歩む決意を今、クリスマスの祝福の中で迎える新年において、共に確認して歩んでいくのです。まことの羊飼いである主イエス・キリストによって導かれる羊の群れとして「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。喜び祝い、主に仕え/喜び歌って御前に進み出よ」(1-2節)との促しに応答していきましょう。
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