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2016年12月

2016年12月25日 (日)

ルカによる福音書 2章8~20節 「恐れるな」

 わたしたちは、生きていくための場所が必要です。今、自分がここにいるのだという実感がなければなりません。それは、他者との関係の中で感じられるものです。一人で存在するのではなく、誰かと一緒でなければ、生きていくことはできません。けれども時々、みんなから見捨てられ、ひとりぼっちになってしまったように感じて、悲しくなることがあります。真っ暗闇に一人でいるような寂しさ。そういう暗闇の底にまで主イエスは、わたしたちを探しに来てくださるのです。寂しい思いや悲しい思いをしている人の友だちとなり、仲間となるために、それを証明するために、主イエスは、人間の赤ちゃんが生まれるような場所ではない馬や牛などの家畜の餌箱に生まれたのです。だからこそ、救い主なのだと聖書は教えてくれているのです。
 主イエスは、わたしたちが決してひとりぼっちにならないように、大丈夫だよ、友だちだよ、とそばに来てくださるということ。これがクリスマスの意味です。
 主イエスは、わたしたちの友だちとなるためにこそ、来てくださいました。「友だちになるために」という歌があります(新沢としひこ作詞・中川ひろたか作曲)。

  友だちに なるために 人は 出会うんだよ

  どこの どんな人とも きっと わかりあえるさ

  友だちに なるために 人は 出会うんだよ

  同じような やさしさ 求めあって いるのさ

 *今まで出会った たくさんの君と 君と 君と 君と 君と 君と 君と  

  これから出会う たくさんの君と 君と 君と 君と 

  ともだち友だちに なるために 人は 出会うんだよ

  ひとり さみしいことが だれにでもあるから

 友だちに なるために 人は 出会うんだよだれかを きずつけても 幸せには ならない

  *くりかえし

 誰一人ひとりぼっちであってはならないのです。クリスマスを祝うことは、主イエスが、わたしたちの友だちになってくださった証拠なのです。ですから、その主イエスの誕生を祝うわたしたちは、今度は他の人たちに向かって友だちになっていく道が用意されているのです。
 最初のクリスマスが知らされた羊飼いたちへのお告げは「恐れるな」でした。差別と抑圧のただなかに与えられるクリスマスのメッセージとは友達となっていくための促しとしての「恐れるな」です。「どんなに苦しいときにも、神が共にいて下さる」(インマヌエル)ということです。どんな時にも共にいてくださる救い主が、あなたのために生まれた。だから、「恐れるな!」という言葉を聞くことが赦されるのです。誰一人として余計者にされてはない。一人ひとりの丸ごとの命は尊く、交換不可能である。このような自尊感情の復権の宣言を喜び祝うことが、わたしたちのクリスマスなのです。

2016年12月11日 (日)

マタイによる福音書 3章1~6節 「先駆者を見よ」

 バプテスマのヨハネによれば、「悔い改めにふさわしい実を結べ」とあるように神の怒りはすぐそこに来ているのです。悔い改めないと滅びとに定められるというのです。この世に住む人は誰一人例外なく悔い改めなければ滅びてしまう罪に染まってしまっているのだということだからです。神の都エルサレムでさえも。それで彼は人間の手垢の付いていない荒れ野に行くしかなかったということでしょう。
 ヨハネのもとに集まって来た人たちというのは「ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢」とありますので、より宗教的な高みというものを求めてきたのでしょう。自分たちのことを「我々の父はアブラハムだ」と自己認証できる人たちが来たということです。しかし、自分たちはユダヤ人であるということによって、また律法を守っているということによって即救われるということはあり得ないとヨハネは言うのです。この世の汚れは甚だしいので宗教的な厳格の極みとしての禁欲主義に魅かれていったのでしょう。ヨハネは権力の宮殿の前に行って、ヘロデの結婚のあり方が律法に適っていないと宮殿の前か、あるいは人が大勢いるところで演説したのでしょうか。発言を支持する人も大勢いたのでしょう。
 イエスの場合は、ヨハネの弟子になりながら全く逆の方向に向かいます。ヨハネはイエスを指さしていますが、逆の方向を歩むのです。ヨハネは荒れ野に出ていきます。人の手垢にまみれていない人の住んでいないところにヨハネは向かい、一方イエスは人が住んでいる里に出ていくのです。ヨハネは誰一人として赦されないと聖さを突きつめていくのです。イエスの場合は、全く逆で誰もが神によって祝福されている、喜ばれているとするのです。ヨハネは罪においてすべてが同列にされます。イエスの場合は、すべてにおいて広がっているあり方の中で、赦しにおいて開かれていくのです。ただイエスの主張というのは、当時の仕組みをひっくり返すのですから、より弱い人、虐げられている人、罪人と呼ばれている人など軽蔑されている人たちこそが神の救いに与れるという、逆の方向に開かれていきます。逆の方向に開かれるためにこそ、まずブルドーザーのように地ならしをしたのがヨハネであった。その備えられた道をイエスはやってくる。
 「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」という言葉によって備えられた道はイエスのために拡げられていったのです。この社会は間違っているという指摘の厳しさに気が付くことが必要です。誰一人として神の前に立つ資格はない。イエス・キリストを喜びとして受け止めるためにはヨハネの裁きの極みの宣教が必要だったのです。これを踏まえたときにイエスの誕生の喜びの意味合いが浮かびあがってくるのです。ヨハネの裁きをイエスにあって捉えかえすときに、わたしたちの求めるべきものはヨハネを再解釈することによって倫理が整えられるはずです。

2016年12月 4日 (日)

ヨハネの黙示録 22章12~13節 「神は神としか言いようがない」

 黙示録は世の終わりを書いたものですが、著者のヨハネは、おそらくローマ帝国において、本格的なキリスト教徒への迫害ではないにしろ、人々が抑圧され、また戦争が起こり、そして差別、抑圧、人々の憎しみ合いという中にあって、もっと人は神によって祝福された生き方ができるはずだという願いを、預言者の霊感によって書いているのでしょう。絶望の時代のただなかにあって、あえて希望していく信仰的態度・決断があるということなのです。この積極志向、あえて希望をもって語るところにこそ、この世の構造悪に晒されようともわたしたちには希望があるのです。
 黙示録を書いたヨハネと読み手のわたしたちの状況というのは、そんなに遠くない。そのなかで、どういう信仰的決断をしていくか、というところでヨハネの黙示録に共鳴する部分があるとすれば、世の終わりが来るというところに、脅しではなくて慰めを聞いていくことができるかどうかではないでしょうか。それは何か。それは主イエス・キリストが来られるという希望です。
 黙示録を読んでいくと、なかなか世は終わらないのです、何年かの悪しき力との戦いがあったり、千年の王国があったりしてなかなか終わっていかない。しかし、22章では【 以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。】(22:20)とあります。
 どのような困難や艱難、悩みや痛みがあるにしても、そのただなかに向かって「然り、わたしはすぐに来る。」と主イエス・キリストが約束してくださっているので、黙示録では続いて「アーメン、主イエスよ、来てください。」と応えていく生き方となります。悲惨と重荷に向かってイエス・キリストの神が「然り、わたしはすぐに来る。」と言われた。この約束のもとで神の国を望み見ることによって、わたしたちはこの世に対するあらゆる恐れから自由になっていく、変革を恐れずに自由を求めていくことができる。終末があるからこそ、待つということを新たに捉えかえすことができるのではないでしょうか。時は前進しています。その中にあって、主イエスよ、来てください。」と応答していく、それがクリスマスを待つということです。迷っていても悩んでいても、きっと神によって招かれているところに到着することができるはずだという信仰によって、今一度何度でも新たにされていく可能性をアドベントの期間に確認できればと思います。

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